インフルエンザが全国で猛威を振るっています。
私も気を付けてはいますが、リスクは高いので気合でできるだけのりきりたいと思います。
私も勉強始めてからは20年、自分で指導し始めて18年、色々な問題行動と呼ばれる犬たちと飼い主さんと向き合ってきました。
もちろん、スタートは超未熟な私に依頼してくださる飼い主さんに今の精一杯のできることでサポートしながら、勉強もさせて頂き、自分も成長させて頂きました。
やればやるほど、教科書的、理論や学問とかけ離れた現実と本来の基本とのギャップに自分でどれを選択するべきか?本当に悩み、やはり様々な失敗や他の先生の失敗などから学びながら、今もまだ道半ばという感じです。
見た目感じるもの以上に見えてない部分が多く、学問や知識、理論という色眼鏡で見てしまうから真実が見えなくなるし、そこしか見えないのです。
ここはやはり症例数と対応の数だけ、自分に不信と飼い主さんにしてもらうべきことは何かという広く色眼鏡をはずして見えるようにはなってきました。まだまだ色眼鏡は透明ではないので、これからもっとこの汚れをクリアにしていかないといけません。
犬の行動の原因や改善策ばかりに囚われてきましたが、昨年の学びから一つ私を一歩引いてみるきっかけを頂き、また飼い主さんに教えると同時に、私はそうなったプロセスを良し悪しを抜いて習うに徹してみました。
それによって、犬の行動や心が問題ではないという部分になり、飼い主さんが悪いのではなく、”わからない、無意識”の部分の関係性の問題を昨年の暮れにまとまり、2019年はここから始まっています。飼い主さん以外に、犬が好きと他人の方の犬を勝手に可愛がり楽しむという人たちによる弊害も起きていることも知ることができました。
実は私のスタート地点で感じた犬との関わり方の日本人とイギリス人などの違いを感じた初心を取り戻し、あの時の感じてたことが、逆に素で見えて素で感じて見えていたことに気が付けました。
勉強すればするほど、知識や方法は増えたけど、同時にそうした決めつけた学問に染まってしまい、それを塗り付けることばかり先行して、実際の色を見ることを経験を積むほど見失っていっていたことに気づきました。
犬の行動の問題を評価する・・それ対しての対応策と犬の改善意識を持たせてしまうとその先入観から実際に起きている”状況”を見落とす危険性があります。行動に目を止めて評価する前に、行動からの状況把握(現実的)の認知が必要になります。
問題・行動を変える・・すべて自分は正しくて相手の問題を改善すると最初に意識持ってしまうと自分を見失います。
飼い主さんももちろん困っていますが、犬が困っていることに気が付く人が少なく、専門家もその困ってる状態を問題として捉え改善しようとか、パニックというただの現象だけに対処しようとしますが、どうしたらいいのかわからなくて困っているのです。
こうしたら大丈夫、安全ということを教える、保護する私たちの対応が必要です。
問題は犬が一番困っており、それを益々無意識に強めてしまっているのも私達人間なのです。
こうした環境を無視した、犬の改善策は相手を直す(治す)という人間の一方通行な満足になってしまいます。
その行動は病気なのか?本当に病気なら治療しないといけないし、環境を無視した病気というラベルが病気にしてしまう危険性をいつも気をつけろ!と私も本当に何度も教えられたことです。
問題行動は病気ではない!信頼不信や関係が築けない障害が起きているのなら、獣医師でないカウンセラーは病気としてではなく、関係性と信用と信頼ができないことで、自己防衛をしないといけない状況下に置かれている現実認知が大切さだと言われており、発達の段階で何か脳に異常があるのなら、その治療を優先し私達カウンセラーはサポート方法を提供する。
咬む=心(脳)の病気とすぐに、犬に改善の余地をおくような意識は、本当の事実を見失う危険性も含んでいます。
もちろん、病気ではない鑑別診断を獣医師による検査などの診察を受けて病気じゃなければ、飼い主さんの提供環境の改善を見直します。
異常行動も本当に異常なのか?学習性で関心を引く行動強化によるものなのか?を注意深く観察しないといけません。
分離不安なのか?分離不安症なのか?実は分離快感もしくは、関心を引く行動なのか?も注意深く、犬の行動サインを情報として得ないとただ教科書的にこれと決めてしまうと、結果が逆になります。
分離と再会のフィードバックを見て、分離で不安なく、再会で喜ばなければ愛着障害の可能性も。
しかし、多くの問題はやはり飼い主さんの保護放任によって、自己防衛しないといけない状況におかれていることが多いのです。
守ってもらえる信用と、信頼を得ない限り、どんな素晴らしい改善方法を行っても改善には至りません。
行動評価の前に関係性と保護されている信用の保障されていないと飼い主と一緒にいても、対応、処理をしてくれなければ、犬が自己対応しないといけないこと自体、飼い主の信用度は低く、そこで嫌な経験を積めば同時に飼い主さんの信用も下がってしまいます。
犬が悪いと問題に名前を付けられて、犬を直そうとスタートした時、人は犬を愛するのではなく、自分の身勝手、我利を優先する心になってしまいます。自分の信用を失う現実状況を認知してこそ、フェアな改善と直すではなく、約束し続けることに繋がります。
そして、こうした問題で忘れてはいけないのは、飼い主さん自身での対処力の習得です。
自分で自分の身の安全を守れないこと、犬が人を馬鹿にしているのではなく、人が犬を侮り、軽視し、バカにした結果、動物の強さに危険にさらされていることも自分達の犬をバカにしているから甘やかし、また自分の危機管理も弱くなるのです。
危険回避する意識を過擁護することで、益々人は注意散漫になるので、リスクを誰かに背負わせて逃げるのではなく、また自己対応を回避させれば、「こいつ!」と言葉が出るように、自分を守ることができない意識、痛い思いをして泣いたまま学ばない赤ちゃんにしてしまうのです。私達専門家は魔法を与えてくれる神様でも仏様でもありません。
むしろ神様や仏様だからこそ、魔法ではなく自己保存の術や意識を持つ学習の機会を与えると思います。
やはり自分という主体性を奪うことは、神様や仏様のような叡智的視点からはありえません。
私はあえてリスクを飼い主さんにさせることは多いです。
それは本当に現実認知として危ない、怖いと感じないと、本当に自己を守る責任意識が持てず、怪我の回避するための自己意識が育たないからです。
危ないと本当に意識を持てば、真剣に取り組みますが、どこかで甘えがあり危険から逃がしすぎることでその意識がなくなることは”死のリスク”を高めてしまいます。
犬は怖い・・それを知っていれば、その怖さを出さないための教育が実行できます。
それが犬も人間を怖いと出さなくてよくなるようになります。
犬を愛するとは、動物性である殺傷力のある犬という動物としての本来の力を認め、その力を敬うことでその脅威を出さない為の育みができ、自分も犬に脅威を与えない存在として成長するのです。
咬まれないように専門家が考えるのではなく、咬まれないように飼い主さん自身が自分で考えられるように指導しないと、飼い主さんの為にならないのです。
どのサインが危険サインで、その時に引き際を自らで学び養うことで、対応力が身に付けば咬まれることも本当の意味で少なくなりますが、回避策をむやみに提示すれば、どこかに甘さがあるから咬まれるし、相手に脅威を与える行為を止められなくなります。
知識的、表面的な優しさや解決はその先を見据えた理性的指導、教育にならなくなってしまいます。
これはやはり先輩、先生からの叱咤で、私自身が飼い主をダメにしていることに耳を傾け、自分の知識や学に自惚れることなく、自らも犬の怖さを知っているからこそのできる、飼い主教育であり、犬の教育=共育だと言えます。
最後に忘れてはならないのも、クライアントの犬も自分の愛犬としても考える、飼い主として考えることです。
いくら学問的、知識、理論的に正しくても、一人の飼い主としての心を気遣いがないと犬にとってすごく冷たい人間になってしまいます。
私も専門家でありながら、皆さんと同じ飼い主です。
だから、愛犬は可愛いし、大事です。
私は餌ではなく、ご飯と呼ぶのもそんな飼い主的意識からです。
餌ならばら撒くことが出来ても、ご飯をばら撒かれて食べろって私は一人の人間として犬にさせられません。
犬をそうした畜として扱うから、喰えって放り投げれますが、自分の大切な子に、もし自分の子どもに食べ物を放り投げ地面に落ちた食べ物
「ご飯をやるわ!喰え!」とはできない。
この時のむなしさは同じ目に遭った経験がないとわかりません。
私は経験しているから、その虚しさと非情にすごく心を痛めました。
自分に脅威を感じている犬を見て、放り投げるよりも何も危険な出来事が起きないこと、脅威を感じたら離れてあげることが愛情ではないでしょうか?
安心してご飯を食べてもらえるように自分を見直し、脅威を与えているのなら離れてあげることで、順番に「あなたのメッセージはわかってるよ!」とアプローチした方が、その心は犬にも伝わると私は信じています。
メッセージを無視して、ただ自分だけの都合でメッセージを理解し、わかっているということを放り投げてしまう対応をするという選択をしないで頂きたいと私はいつも思っています。
師匠から敬意を育ませてもらう弟子としての自分の心の在り方が大切なのは、こうした大切なことを見逃していき、学問的優秀が人間として、心ある命としての自分さえも見失うことになり、師から基礎を徹底して習う実践こそが、こうした真理を見失わない一番の学問であり、知識ではなく知恵になって、「恵を与えることを知っている人間」に成れるのです。これが「成人」だと思います。
現代は科学の発展によって様々なメカニズムがわかってきていることは素晴らしい進化ですが、その進化の基礎に人間性の形成がなければ科学は凶器へと変わっていきます。
ここまで考えて、咬む、吠える、襲い掛かるという問題を扱う責任を担ってこそのプロフェッショナルだと、私も動物を怖さ、脅威を教えられながら自分の弱さと愚かさを認めて、彼らの犬という動物を尊重して接する心を学ばせてもらいました。
それを得るには、やはり「習う、学ぶ」という敬う心なくして得る事はできません。
どれだけ本を読んで知識深めても、心は人によって育ち、人によってでないと温かい愛の心は育たないのです。
多くは、どこかで犬を侮り、弱いものにして良い人の満たす自己満足に走った結果に、咬まれるということに繋がると思います。
怖さを知って、認め、尊重することで、相手を守り、自分も守れてこその愛犬家です。
その怖い犬、それだけの力を持った犬という動物に、それを出させないための真剣に育まず、玩具のように遊び育てたからこそ危険に遭うのです。
これは動物に限らず、自然も同じで登山も、スキー、スポーツなどすべてに共通していると思います。
車のレーシングでの怖さを知っているからこそ、安全の運転ができますが、怖さを知らないから過信して事故によって怪我や死するのです。
動物と共生する恵みも多い分、脅威も多いのです。
それを大切にしてきた生命観と共生感が本来の日本人の持っている命です。
だから、そうした自然の恩恵と脅威に対して敬い、感謝を忘れない自然共生が神社など、様々な物を神様として大切に、共同生活をしてきたのです。
最近は、犬を愛するプロが少なくなってきたように感じます。
勉強課程で厳しさと痛みを知らずに勉強だけになってしまい、大切な心得を育む動物と向き合う基礎心を師という親に育まれていないからだと思います。
知識ばかりが深くても、知恵がないのです。
方法よりももっと基礎に飼い主さんと犬の共生に必要な指導ポイントがあります。
私は動物の怖さを教えられて、体験経験して、彼らを敬う心を忘れずに、彼らのすごい力を認めて向き合い、そして同じように犬達も私達に脅威を感じていることも忘れないように向き合っています。
明日もトレーナーの資格試験の試験審査官をしますが、彼らにもそうした心を第一に持った専門家として育ち、人と犬の共生の架け橋となってくれることを願い、自分も努めていきたいと思います。
犬は素晴らしい。人も素晴らしい。
だから上とか下とかもない。
優劣もない。
仲間として、敬いあえる友情と共に生きる同士として、共に育みあって成長していきたいと思います。
犬を保護してあげて、育てる。
責任もって守ってあげること、自分が頼れることを実践して信頼してもらえる約束を守り続けて、犬とキズナを育んでください。
これが、問題改善の根本だと私は思っています。
