大きな台風が今回も来ましたが、被害が出ている地域も多くあります。
お見舞い申し上げます。
私の住む岐阜県は台風から離れているのに、すごい風と雨でした。
ひさしぶりに怖いと感じたくらいの台風でしたが、台風が通過した地域はよりひどかったと思うと本当に怖かっただろうと思います。
少しでも被害が少ないといいですが。
8月31日~9月2日まで東京で開催されたJAPDTカンファレンスに参加してきました。
仲間に会える機会でもあり、再確認する大切な場となっています。
今年は講師として、最後に講演させて頂きましたが、改めて私自身も色々とお話ししながら考え直す機会になりました。
私の弟は陶芸家をしていますし、私も陶芸をやってきたのでアート的な部分と日用品で例えることができると思います。
私の生まれ育ったところは美濃焼で有名なところです。
美濃焼にも2つあります。陶芸家の方が作ったハンドメイドのコーヒーカップ。製陶所で量産されているコーヒーカップ。
皆さんは日常でどちらのカップでコーヒーを飲みますか?
例えば、私なら弟のハンドメイドのカップでコーヒーを飲むとします。
温かみがあるし、コーヒーが美味しく感じるし、やはり量産品では感じない何かを感じてコーヒーが飲めます。
コーヒー飲むのはこうした陶芸家のハンドメイドのカップで飲むのが当然だと思ってたとします。
これは一般の方にとってはどうでしょうか?
普通にお店で買ったカップでコーヒー飲むのが普通でしょ?そんな高級なカップで・・。
どちらも当然だと思っていますが、どちらが正しいでしょうか?
これに正しい間違いはあるでしょうか?
これが家庭犬のしつけトレーニングにおいて起きているように感じます。
専門家は家庭犬のしつけトレーニングを飼い主さんが学びトレーニング指導受けるのが当たり前だと思っていますが、飼い主さんにとってはそれは特別な犬にだけ行うものとなっているとしたら、家庭犬のしつけトレーニングという育みを飼い主さんが指導を受けて身に付けるのはアート(美術的)価値になってきます。高価なもの、高級なもの、美術品です。
これを育みに当てた時、子どもを戦闘機のパイロットに育てたいと思った時、その子に戦闘機のパイロットになるための特別な訓練や学びが必要になりますが、普通に会社に勤めるにあたってパイロットの訓練や勉強は必要ありません。
アジリティー、ドッグショー、訓練競技会、警察犬や盲導犬などを育てるための訓練は、日常とは異なる専門性を必要とします。
家庭犬にとっては、特別ではなく人と犬が共に生きていく(生活)していくために必要なスキルを飼い主さんや犬に提供することは、アート的な価値観ではなく、日常的に使う価値観と存在として位置づけしていく必要があります。
日本では正しいとか間違いではなく、家庭犬しつけトレーニングという人と共に生きるための適応力を育むという教育はまだ特別な存在だと思いますが、これを犬のことを考え、総合的に飼い主さんのことを考えると日用的価値にしていかないといけませんし、”訓練”ではなく、”育み方”を身に付けてもらう、学んで知って実践スキルを身に付けて頂き、人と共に人間社会に適応して生きられる子に育てられる”飼い主さん”を育てていくのが家庭犬のしつけトレーニングであり、犬というよりも飼い主さんにウェイトが置かれることが重要だと思います。
犬を育てられる人の為のスクールが家庭犬専門のスクールという認識と提供内容を発信していき、犬を特別にするためのアート的価値観ではない認識に意識づけをしていかないといけないと感じます。
今までの日本にとってみたら、飼い主さんが学ぶなんて習慣も文化もないですから、家庭犬の共育はアートです。
これからの時代はこれを日用、日常的な価値観にしていかないといけませんから、時間がかかりますし、これが家庭犬として共に生きる文化築いていくことだと思います。
家庭犬トレーナーはそれを発信していき、文化として築いていくことを活動していくことがこの世代の役目ではないかと思います。
ないを当たり前にしていくための文化の動機づけです。
大変だとは思いますが、皆で発信して美術的な訓練ではなく、共に生きていくという最低条件に適応するために必要な育みの普及を皆でしていけたらと思っています。
そのためにも量産の日用品的価値観には科学的視点とエソロジーが必須なのです。
簡単ではありませんが、プロを目指すわけではない飼い主さんに、少ない日にちと時間で、プロ並みの成果を提供しないといけません。
本来なら毎日学びに通うべきですが、それは無理だからこそ学習心理学や脳科学で証明されている週1回~2回の反復学習法で飼い主さんにスキルを身に付けてもらい、犬には人間と共に人間社会に適応して暮らせる力や心を育ててあげないといけません。
そうした理由も飼い主さんに知ってもらう努力が必要だと思います。
そうしないと人間の勝手の犠牲になるために犬が迎えられただけになっていくだけで、しつけトレーニングも飼い主さんの要求に応えさせるためだけ達成するものであってはならないからです。
家庭犬のしつけトレーニングがアートにならないように、今一度、私達専門家も原点に立ち戻って考え直す必要があります。
トレーナーは勉強して最新だと進んでも、飼い主さんがそこについてきていなければ宇宙の話をされているアートな話です。
ある意味、同事の心で共に歩む場所をもう一度見直さないと、自分だけかなり進んでいても、相手の居場所の確認を忘れたら独りよがりです。どんなに素晴らしい知識、科学、方法でも。
今一度、共に育む、歩むというスタートラインとどんな目的のものなのか?を見直す、気づく時だと思います。
飼い主さんに犬に人間社会で共に生きるために必要な適応力を育む日常的なことという意識を持ってもらえるように。
アートか、日用か?それは専門家が決めるのではなく、学習者である飼い主さんが決めるものだからです。
