突然と秋めいてきましたが、きっとまた戻ったりしながら、秋に向かうと思います。
猛暑の峠は越したはず。
変動が激しくなると思うので、体調管理には気を付けてお過ごしください。
家庭犬トレーナーという仕事をさせてもらって、本当に思うのは犬に教えたり、育てたりすることとは直接関われず、飼い主さんと始まり、飼い主さんの達成で終わるという繰り返しをしているように感じます。
犬は昔も今も何も変わっていませんが、私達人間は日々変化し、その中でも日本人は流行やブームがあり、本当にニーズ変動の激しいのを感じます。
伝統を重んじて、伝承を大切にしつつ、改良していく欧州文化と比べて、日本は伝統は古いとか間違いとして、常に新しいものに飛びつき、飽きてまた次の欲を求める忙しい国で、生きるのも本当に忙しいと思う。
同じ生きる時間のはずなのに、欧州にいればゆったり感じるし、日本にいると目まぐるしく感じる。
ベースという基礎をないがしろにして、建物をどんどん変えていくから、変化に適応していく提供者側にゆっくり検証や改良を見直す時間も本当に少ない。
犬たちに対しては、便利な世の中になればなるほど、私達は快適に慣れすぎてアナログな命の育みは面倒なものになっているように感じる。
ゲームのように操作したらキャラクターが思い通りに動くのが当然のように、犬もだんだんゲームの世界のようになっている。
ゲームはスイッチをきれば面倒見なくていいし、管理も必要ない。
やりたい時にスイッチを入れて、やりたいように動かし、満足したら止める。
命の育みは、どんな時代でも変わらないもの。
労費はつきものだし、生きている以上は放っておくことはできない。
楽しい理想世界に生き、現実の理想とは異なる世界からの現実逃避が強くなっているのでは?それに警鐘を鳴らすのが犬たちのSOSとなる問題と呼ばれている行動のメッセージに感じる。
子どももそうですが、犬も育児に便利はないし苦労はつきもの。
思い通りにならないし、相手にも意思がある。
その中で誰かと関わって共生していく世界だからこそ、協調や自制は育ててあげないと、生き苦しくなってしまう。
ゲームのようにはいかないし、理想のようにはいかないのが現実。
前の犬は・・その気持ちはわからなくはないが、その犬はその犬で、もういないし、その子はこの子ではない。
この子はこの子で、今、この子に必要なこと、育てないといけないことを提供していく、実践していくことをするしかない。
良いとか悪いとか?それよりも互いが共に生きるために”必要”なことを実践していけばいい。
お利口だからいいのか?お利口じゃないからダメなのか?
こんな評価はどうでもいい。
皆お利口なんだから。
理想はいくらでもあってもいい。
現実をしっかりと見据えた上であれば。
あの世なのか、この世なのか?現実逃避は身はこの世において心や魂は別の世界に飛んで不在だと思う。
犬は現実に生きている。理想世界に行き、飼い主さんの心も魂も不在の状態で愛情が注がれていない、育てる親の心、ここにあらずでは育つものも育たない。
体はご飯あげてたら、大きくなるけど、心は育てなきゃ大きくならない。
心の栄養となるご飯が”育み”だから、作って与えてあげないといけない。
そのレシピがしつけ方法だったり、トレーニング方法だったり、色んな味付けがあるので、家庭犬の教室は、犬の心を育む料理教室みたいなもので、料理教室によって味付けや品は色々あって当然。
心の栄養失調が原因で、心が上手く機能せずに、生きることに適応できなくなるのが、問題であり、その問題は犬だけではなく、提供する側も心の栄養失調だから提供できないのも現実ではないだろうか?
教えるのにも、育てるのにもエネルギーは必要。
特に教えていくことはかなりのエネルギーを消耗する。
親は大変なのです。命や心を削って命の育みをしていく。
そうして自分も育ててもらったし、今度は育てていくためにこの心を削って育てる。
そうして共存共栄しあっていかないといけない。
教えることで心削ることは痛みや苦しみが当然生じる。
その”苦痛に耐えられなくて、辛い=かわいそう”となり、犬を甘やかすのではなく自分の心を守る自己防衛をしているのだと思います。
命を迎えるという現実は、こうした育みや教えることで心削る苦しみの上に、楽しいが存在する。
山登りと同じで登り坂を登って苦痛に耐え抜き、頂上の景色を楽しんだら、次は下山という苦痛と闘って平地に戻る。
楽しむとは山登りと同じだし、命を迎えることも同じだと思います。
残念ながら命の育みにはロープウェイもケーブルカーもありません。
お互いに自分の足で歩ませないといけません。
あえて犬を迎えないのも、大切な自己防衛ですし、本当に命と向き合い育み、共に生きるための教えをする覚悟があるのか?もう一度よく考えて、迎えたら楽ではなく、楽しいという頂上目指して登頂をして犬をガイドしていかないといけません。
愛犬家とは、こうして犬と苦労を共にできる人、共に頂上の景色を楽しめる人、それが生きるという道を歩める人達だと思います。
犬は便利じゃないから、私達は人間性を見失うことなくいられます。
楽在苦中という言葉は私のお世話になったお坊さんから頂いた言葉ですが、共生も育みも生きるとはこの言葉に尽きると思います。
生きるとは本当に修行みたいなもので、命の育みはまさしく自己成長の修行そのもの。
修行するために楽をするなんてこと、甘える、逃げるなんてありえません。
苦を苦としない力を鍛えます。楽しむ凄味を身に付ける。
命を迎えた以上、インスタントもコンビニエンスも現実はない、共に歩む山登りの始まりです。
今一度、心の栄養をとどけ、共に生きるための力を育みあえる現実を見つめて、心身ともに健康な共に生きる時間、旅を楽しんで頂けたら幸いです。
一匹でも多くの犬が今すぐにでも、心の栄養のための育みという食事を与えてもらえることを、心満たされてゆったり生きられるように。
この世で生きるという貴重なステージでの生き方を見直し、活かし生き楽しむことをしていきましょう。
犬と共に生きる飼い主さんのナビゲートが家庭犬トレーナーだと最近は思っています。
