妻がいると自分がよくわかる。
自分がわかるとイヌがよくわかる。
変な言い方をすると、私は妻にトレーニングを受けている。
私の専属トレーナーが妻です。
しかし、私は飼い犬のふりしてもしかしたら逆なのかもしれません。
それが「共育」ですね。
妻を飼い主ととらえて自分の行動を分析してみるとイヌがどのようにその行動をおこしているのか?
それがよく理解できる。
罰による教育は、私は罰を避けるために妻の前では罰を与えられる行動はとらない。
しかし、妻がいないとこの罰は効果を発揮しない。
まったく無意味なものなのです。
そして、その罰は問題行動をどんどんと変化させて行き、改善ではなく、変化していく。
罰をさけるために、今度はコントロールできない距離で問題の行動を起こすようになる。
そうなるともう効力はない。
だから、罰で問題が直ったと思うと、実は見えないところで行動をとるというより悪化した問題行動になっていく。
その半面、誉められて定着した行動は指示がなくても、無意識的にその行動をとる。
罰の時は意識しているが、誉められて強化された行動は誉められたという意識は残らずに自発的なおかつ無意識に行動しているように思う。
やはり誉められた方法は妻がそこにいなくても、その行動を実践できる。
先ほどの罰とは大きな違いで、すぐには結果はでないものの、強化し続けると今度は無意識的にその行動を自発的にするようになる。
これが誉めるということの大切さだと思う。
罰が不要なわけではない。
すぐに結果を出す、(止める)には罰は有効だが、その後の教育(指導)と誉め(して欲しい行動を誉める)と罰が基礎となって良い行動が上乗せされて、困った行動は止まり、良き行動をとるように変化する。
私達も簡単に考えたら、行動を減らす、無くすのか、それとも増やすのか?この2つのポイントをしつけでも、教育でもしているだけなのです。
しかし、どうしても罰を多く用いることで、罰のもう一つの副作用は「慣れて効き目がなくなること」です。
そうなると、嫌悪刺激では制止ができなくなり『痛み刺激」に変えないと止められなくなる。
これが「体罰」の一歩なのです。
だからこそ、罰の後にして欲しい行動を教えて(導いて)誉めていかないと、最終的には「体罰」しか教育できなくなるのです。
罰は益々強い罰を必要にさせていく。
それを防ぐためにも、罰は一時的、長期的には誉める方法を取り入れないと体罰という暴力に発展する。
多くのイヌのトレーニングもこうした方程式のように皆さんは甘やかして、罰して誉めないという最悪な状況をわざわざ作って、離縁のきっかけさえも私達が作ってしまっている。
やはり夫婦の絆も薄くなっているように、今一度私達はイヌを通じて「共育」を学ぶ時だと思います。
それは互いが心地よく暮らすためのルール作りを一緒に築いていく、信頼を築く課程だと私は思います。
家庭犬トレーナーはイヌだけでなく、飼い主さんをトレーナーに育てるのが本当の仕事。
だからこそ、実はトレーナーというだけに、意外と日常に使える学習理論を習得している。
イヌとトレーニングを学ぶことは、すべての共生に通じているのです。
親子、夫婦、仕事のパートナー、育成・・今一度学ぶ時だと思います。
妻という鏡を通じて自分の行動分析をしていくことができる学びは非常に勉強になる。
原理がわかるということは、その時点で感情的にならなくてよくなる。
多くの方の実践を妨げるのは感情が邪魔をする。
でも、その感情コントールはやはり学びによってできるようになる。
だから皆さんはできると思います。
妻は大切な先生です。
この問題行動の夫を頑張ってトレーニングしてくれていますから。
お陰で、たばこも止めたし、料理もできるようになった。
その他多くの行動を習得しました。
トレーニングって楽しいですね。
一緒に向き合える愛情ツールそのものだと思います。
そうして妻が先生に見えた時、旦那さんも素敵な先生になれると思います。
そんな先生を見ながら、命が育まれる家庭はやはり仕合せが良いと思います。
行動心理を学ぶこと、学習理論がイヌの為ではなく、一番自分の為になっています。
だからドッグスクールは、私にとっては自分の共生を豊かにすることを学ぶ場だと思います。
相手に興味を持つ、知りたいと思う・・それが愛の一歩だと思います。
これからももっともっと深めていきたいと思います。
皆さんも仕組みを知ると面白く、また冷静に育みあいができますよ。
簡単だったら、つまらない。
私の問題行動は永遠と続くと思いますが、一つ一つ同じだけ良い行動を生まれています。
それが相手がいてこそできる幸せですね。
そんな時間をドッグオーナーズスクールのもう一つの楽しみと利益として皆さんに活かしてもらえたらいいなぁと思います。
イヌのようにより深い心と純粋さを忘れないように私もしようと思います。
