秋と冬景色が混ざる自然一杯の長野にいると人間性がもどってくるように感じる。
犬と向き合う皆さんを見ながらこんなことを考えた。
優しさってどんなこと?って・・。
私はやさしくしている・・それって優しさなのか、妥協なのか?それとも自己満足なのか?
自分も考えてみた。
私は優しいはこう思う。
先を見通し、その子にとって得られない、思い通りにならない、嫌なことを与えられる自分に厳しい人。
何でも思い通りにして、要求どおりにさせてその場だけ満足させるのは、優しさではなく、「甘やかし」だと思う。
最近、「優しい」がわからなくなっているのではと思う。
このままでは、この子が苦しむ。
だからこそ、目の前の楽しみを奪わないといけないことがある。
それが出来た時、その場は子と共に心は泣く。
でも、その先は共に笑顔でいられる。
その場がかわいそうだから、思い通りにさせる。
自分が嫌われなくてよかったと思う。
そして、その先思い通りにならずに暴れる子を「問題行動」と呼び、その子をダメという。
それってすごく悲しいことだと思う。
だからこそ、飼い主さんにも嫌なことを私は押し付ける。
理解してもらえなくてもいい。
でも、その先良き未来を得て頂けたらそれでいい。
しかし、その飼い主さんのことを思わずに要求通りにする。
それで結果が出ずに、苦しむ結果となる。
どちらが本当に優しいだろうか?
犬にも同じで、好き放題にさせておいて吠えさせて問題だと呼び、それをダメだと教えれば、その行為をかわいそうというその心こそが、「かわいそう」を作り出していることに気がついていない。
なんと言われようといい。
デモの時、私が持ってビクつくのはその時点で思い通りにならないことに負けている。
私に持たれることでビクついているのではなく、そうした負荷に耐えられないようになっていることを見てほしくてやっているのに、私に持たれることがかわいそうという声さえ聞こえる。
いったい優しさって何だい?
かわいそうといつまでも文句や逃げ言葉ばかりいいながらも、甘やかし続ける、その子の要求通りにする。それは病気で苦しむ子どもから苦い薬だからと薬を飲ませないと同じこと。
だから治らない。
治らないようにしているのです。
犬達は苦しんでいる。
優しさを知らずに。甘やかすのは優しさではなく、それは身勝手だと思う。
優しさには厳しさがつく。
冷たいを教えて、ぬくもりを与えるのが優しさ。
自然の道理そのものから、今一度優しさを取り戻す時だと思う。
優しい人ほど、時には厳しい試練を与える。
でも、それを乗り越えて自力をつけさせてもらえたこと、自分で歩くというチカラを自力でできるように導いてくれた人が優しい。
だから、いくら高いお金をもらっても、あなたに試練を与える神様や仏様は本当の優しさ。
そこで叶えることが優しさではないから。
すべては自分自身に厳しくできるか?
そこで、優しさを与えられるか与えられないか?
決まると思う。
甘えばかりで、自ら釜を温めないから冷え切る。
優しさは自らで燃やす。だから温かい!
犬達に温かい心で生きてほしいから、私はあえて彼らの我儘に叱咤する。
共に自分自身の甘えに叱咤する。
それは怒るのではなく、教えるということ。
それが教育ではなかろうか?
共育ではないか?
共育こそが、優しさの基本だと思う。
犬を飼う方達に、共育という優しさを取り戻してほしい。
そのために、私は嫌われ者にも鬼にもなる。
皆さんのために、自分のために。
