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みどりの木のブログ

1日おきに更新しています。

今回から筑前大野城(日本100名城)

の紹介です。私はこれで100名城を

すべて訪問出来ました。

11月7日の夜行バスで、大阪から

福岡に行きました。

次の8日朝8時ころに福岡に到着し

て、駅前でレンタカーを借りて、

午前10時前に大野城へ出発しまし

た。

 

今回は大野城の歴史です。

天智天皇のとき665年『日本書紀』

には、「・・・大野と椽、二城を築

かしむ」と、記載されています。

 

基肄城については

 

4回に渡り解説をUPしています。
 
『続日本紀』には「大宰府をして大野、
基肄(きい)、鞠智(くくち)の、三城
を繕治せしむ」と、記載された城です。
大野城は白村江の戦いで唐・新羅連合
軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)
の防衛のために築いた古代山城です。
665年(天智天皇4年)、基肄城ととも
に築いたことが『日本書紀』に記載さ
れています。城郭の建設を担当したの
は亡命百済人で、「兵法に閑(なら)
う」と評された、軍事技術の専門家の
憶礼福留(おくらいふくる)と四比
福夫(しひふくぶ)です。また、大野
城・基肄城とともに、長門国にも亡命
百済人が城を建設しているが、城の名
称も所在地も不明です。
岡山県にある鬼の城も、百済からの亡
命人で百済王子が建設したそうですが、
大和朝廷に従わず勝手にやっていたの
で、朝廷からの討伐軍によって、滅ぼ
されました。鬼の城と大野城の大きさ
を比べると、下図Googleマップでは、
 
赤で囲んだところが鬼の城です。
黄色で囲んだ大野城と比べると、
鬼の城がかなり小さいことが分か
ります。
 
大野城は大和朝廷と帰化人の協
力作業によるもので、巨大な朝
鮮式の城です。
大野城は、大宰府政庁跡の北側背後に聳える、
標高410mの四王寺山(大城山)にあります。
 
現在の大宰府政庁跡と大野城です。
(大宰府展示館の写真より)
 
山頂を中心に馬蹄形状の尾根から谷を
廻る版築土塁(尾根)と石塁(谷部分)
の外周城壁の長さは、約6.8Kmです。
また、南側と北側の土塁が二重で、城
総長は8.4kmで防備を固めています。
 
谷にある石垣(百閒石垣)部分
 
城域は東西約1.5km×南北約3km
の、日本一の大規模な古代山城です。
赤色の囲みは岡山県の鬼の城です。
大野城の大きさが分かります。周囲
はほとんどが版築土塁で、石垣で囲
まれる部分もあります。
 
初期には礎石が無しの、掘立柱でした
が、710年頃に礎石を使ったものに建
て替えられました。
 
『続日本紀』の698年(文武天皇2年)
には、 大野城・基肄城・鞠智城の三城
の修復記事が記載されています。施設
として維持されていました。

天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句
麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に
徹しながら、対馬~九州の北部~瀬戸内
海~畿内と連携する防衛体制を整えます。
また、大宰府都城の外郭は、険しい連山
の地形と、それに連なる大野城・基肄城
と平野部の水城大堤・小水城などで防備
を固めました。
 
大野城周辺図です。
大宰府は665年頃に出来ますが、同時
に大野城と基肄城・水城が造られました。
 
今の高市政権も台湾・北朝鮮のことに手
を出さず、友好外交に徹して欲しいです
ね。中国も友好外交に徹すれば、台湾の
人も日米も、中国領土でいいよという時
代が来ると思います。
 
天智天皇は664年対馬島・壱岐島・筑紫
国などに防人と狼煙台を配備し、筑紫国
に水城を築きました。(上図)
天智天皇は665年長門国に城を築き、筑
紫国に大野城と基肄城を築きました。
天智天皇は667年大和國に高安城・讃岐
国に屋嶋城・対馬国に金田城を築きます。
この年、中大兄皇子は大津に遷都しまし
た。奈良より安全と考えたのでしょう。
 
増長天礎石群です。
 
出来た665年当初は掘立式
でしたが、710年頃に礎石
式に建て替えられました。
1000年頃まで施設は維持
されていました。城内には
奈良・平安時代に約70棟
もの倉庫や住居があった
ようです。穀物や武器の
保管をしていたようです。
1274年の元寇では、日本
軍が水城まで退却しまし
た。このとき大野城が活
用されたと考えられます。
 
この1棟で600人が1年籠城
出来るそうです。大宰府が攻め
られたときに、大野城に逃げて
籠城するという、詰めの城とし
ての機能があります。
 
大野城跡マップです。(上が北)
礎石群が各所にあり、大規模な
軍勢が籠城出来る城でした。
 
大野城マップ(下が北)
小さい赤い四角が礎石建物跡です。
 
774年に上図の毘沙門堂が建っている場
所の周辺に、四王寺が建立されました。
四王寺山の名はこのことに由来していま
す。
 
大野城がある「山」の名は、『万葉集』や
『風土記』には、「大野山」や「大城山」
と記述されます。今の元号「令和」は、
中国の古典からではなく、初めて日本の
『万葉集』から採用されて、大宰府での
「梅花の歌」序文から取られました。
具体的には、「初春の令月(れいげつ)
にして気淑(きよ)く風和(やわ)らぎ
」という一節の「令」と「和」の一字ず
つを引用しています。
 
現在の大宰府政庁跡です。
(大宰府展示館の写真より)
ほとんどの城は山上に詰め
の城があり、山の下には城
館があります。
これを山側から見れば、
 
大宰府展示館の模型写真より
 
近代になり総石垣と堀のあ
る城の時代になり、山上の
詰の城が不要になりました。
江戸時代には城内に村も出
来ました。
 
県民の森センター付近にある村です。
 
 
大宰府政庁の復元模型です。
(大宰府展示館の写真より)
 
 
江戸時代の後期1800年頃には、
西国札所巡りにならい、33ヶ所
の石仏を城内に建てて、これを
巡り、観音様のご利益で、現世
の不幸から逃れようと願った、
33か所巡りが流行りました。
 
1932年に大野城は国の史跡に
指定されました。
2006年には、日本100名城に
選定されました。
 
今回はここまでで、次回に続く

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