前回の続きです。
今回は二の丸から本丸です。
下図二ノ丸⑫付近から見た
天守と本丸御門です。
松前城資料館でもらった
パンフレットの地図です。
⑫付近から南側を見ると
⑫付近から南側です。
多聞櫓はなくて、下に
二の門跡が見えます。
⑬付近で記念写真を撮りました。
⑬付近から⑦の方に行きます。
⑬付近から⑦の方に行く途中です。
⑦付近から⑥方向です。
搦手二の門が見えます。
芝桜もきれいですね。
この反対側は
多聞櫓跡方向です。
ここに松前町の桜の標準木
があります。
桜の標準木です。
この樹に花が5輪以上咲くと
開花になります。
石碑は青木郭公の顕彰碑です。
城跡には句碑がよくありますが、
俳人の特権ですね。
下図⑭付近です。
鎌倉翁の顕彰碑があります。
大正10年頃から50年間
桜の育成に尽力し、多くの
品種も作り上げた方です。
今では松前城は桜の名所に
なっています。
横から見た天守の幅は狭いです。
この付近で咲いていた黄水仙です。
⑮付近に行くと
観光案内所があります。
内堀の方に行くと
内堀に近づいて天守を撮影
しました。
⑯付近に行くと
⑯付近から見た内堀と天守です。
⑰付近に行くと
内堀が無くて大土手があり
ました。内堀から出た土を
積み上げたのでしょう。
内堀の北側はありません。
初めての来た人は内堀もある
立派な城に見えたでしょう。
⑰から南側は
本丸跡です。
松前家の家紋「丸に武田菱」
幕が張ってあります。
北側は内堀が無く溝のような
ものがあります。
明治元年(1868)10月に、
幕府脱走軍は、榎本釜次郎
武揚を首領として、蝦夷地
(現森町鷲ノ木)に上陸し
た。さらに五稜郭を占拠し、
その後、旧新選組副長土方
歳三を長とする、陸軍部隊
:額兵隊の主力が、福山城
へ向けて進撃を開始します。
松前藩正義隊は死力を尽く
して防戦しますが、土方は
防御力の手薄な、裏の山側
から攻めて、城内の一部と
寺町を焼いて占領します。
土方歳三の古写真です。
明治2年(1869)4月に
は、幕府脱走軍の占拠する
福山城を官軍が奪回します。
2年間にわたる戦禍は、城
下町の3分の2を焼き、城内
にも大きな被害を出します。
明治5年になって、開拓使
の治政下に入り、同6年9月、
黒田次官の裁決を仰いで、
福山城の取り壊しを決定し、
同8年までには、三層天守、
本丸御門、本丸御殿を残し、
他の建物、石垣を取り壊し、
濠を埋めて、城郭の形態を
失いました。
昭和10年6月7日、国指定
史跡に指定されます。
昭和24年6月5日、火災に
より国宝であった三層天守
と土塀を焼失しました。
下図⑰付近から本丸方向です。
堀上ヶ門跡の門柱が見えます。
カメラを少し左に回すと
城内にはいろいろな桜があり
ますが、中央は南殿という名
の桜です。
これは御衣黄という名の桜です。
これが御衣黄の花で、うすい黄色です。
(花図鑑より引用)
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