松前城(日本100名城) 1  歴史 | みどりの木のブログ

みどりの木のブログ

1日おきに更新しています。

今日から日曜日まで、ネタの取材に

行くので、ブログ更新はありません。

なので、今夜の更新を早めの昼にし

ています。

 

今回からは松前城(日本100名城)の

紹介です。正式名はは福山城です。

下図は松前城になる前の、陣屋福山館

の屏風絵図です。

 

松前屏風の中心部にある福山館です。

龍円斉児玉貞良によって、宝暦年間

(1751~1763年)に描かれました。

約260年前の松前城下の古絵図です。

商人の蔵が並んでいる地割は、現在

の地割と比較して、ほとんど変わっ

ていません。また、屋根瓦建物が多

く、これは海岸沿いに商人が集住し、

その商品を保管する土蔵と、豪商の

邸宅が並んだためです。

江戸幕府からまだ城と認められま

せんでした。なので、天守はまだ

ありません。

この屏風は、近江八幡の恵比寿屋

岡田弥三右衛門が、松前での出店

の繁昌を後世に伝えるために描か

せたと考えられ、滋賀県近江八幡

市の同家に長く保存されていた。

近江商人は江戸時代にここまで

来ていたのです。

 

現在の松前(Google地図)

幕末には人口3万人といわれ、

北海道最大の町でした。しかし、

現在の松前町は人口6千人ほど

の町で、衰退しています。

 

松前は背後に山がせまる

平地の少ない場所です。

 

松前城の歴史

 

松前町に人々が定着したのは、

今から7~8000年前頃と言わ

れます。北海道でも比較的温

暖なこと、動植物・魚類が豊

富であったと考えられること

から、縄文時代以降擦文文化

の時代(奈良・平安時代)ま

での多くの遺跡・貝塚が発見

されています。 

松前地方の名が歴史上最初に

現れるのは、『続日本紀』の

養老四年(720年)の記事に

渡島津軽津(わたりしまつが

るつ)の記述があります。

渡島は蝦夷地を指し、津軽津

は津軽地方への渡し口である

松前付近の地です。

『福山旧事記』には、文治五

年(1189年)源頼朝の奥州

攻めに敗れた、平泉藤原氏の

残党の多くが、蝦夷地に逃れ

てきたと書かれています。

鎌倉時代には蝦夷地を流刑地

と定め、多くの罪人が流刑さ

れたとあり、この頃から和人

の定着者が増えていきます。

津軽地方では14世紀ころよ

り安東氏がこの地方を平定し

て、鎌倉幕府の蝦夷管領とし

てその領地を広げていました。

蝦夷管領の安東(安藤)氏は、

蝦夷地の支配も任されており、

和人居住地の管理と懲役を行

うため、大館(下図)を役所

としていたようです。

 

 

新羅之記録によれば、1456年

から翌年にかけて、道南地方に

居住する和人と、先住のアイヌ

との間に大きな戦争が起きまし

た。
この戦いの発端は、箱館(函館)

近くで、和人の鍛冶屋がアイヌ

の人を刺殺したことがきっかけ

となっています。

道南に定着した和人が増加して、

経済的優位を誇って館を構えた

ので、アイヌの反発が蜂起の原

因です。

道南地方には12の館がありま

したが、東部の大族長コシャマ

インを中心とするアイヌの人た

ちが団結して、これらの館を

攻撃しました。各館は次々と

落とされ、茂別館(上磯町茂

辺地)と花沢館(上ノ国町勝山)

のみが残り、和人たちは次々と

この二つの館に逃れました。

花沢館にいた武田信広(松前家

の祖)がわずかな兵を率いて

進撃し、上磯町七重浜付近で

コシャマイン父子を打ち取り

ました。

 

武田信広の肖像画です。

 

松前氏作成の系図です。

慶長四年は1599年です。

 

武田信広は、若狭国の守護職 

武田信賢(甲斐源氏子孫)の子

としましたが、『若狭武田系譜』

に信広の名はなく、出自のよ

く分からない謎の人物とされ

ています。松前氏の系図では

武田国信の子になっています。
コシャマインとの戦いで武名

を上げた信広は、花沢館主の

蛎崎季繁の養女と結婚し蛎崎

姓を名乗り、松前氏の始祖と

なりました。 

(これはゲームの勇者ですね)

1512年にアイヌの蜂起があり、

大館の守将も自害し館も陥落し

ました。二世蛎崎光広はその子

義広とともに、小舟180隻に

分乗して上ノ国から大館に移り、

「徳山館」と改め安東氏の代官

となりました。

 

 

 

松前にある大舘跡です。

 

蛎崎氏にとって最大の悩みは、

アイヌへの対応でした。アイヌ

と偽って和睦したり、お宝で釣

りだまし討ちにしたり、アイヌ

の人たちの不信を増大させてい

ました。
四世蛎崎季広は東西にアイヌの

代表を定め、商人から徴収した

税を両族長に分け与えました。

また、このほかにも対等の礼を

尽くしたのでアイヌとの不信も

とけ、しだいに道南和人地は平

静になっていきました。

  

1593年に五世蛎崎慶広のとき、

関白豊臣秀吉に肥前名護屋で面

会し、蝦夷地支配の朱印状を与

えられ、蛎崎氏は蝦夷地の領主

として安藤(東)氏から独立

ました。

 

 天下分け目の関ヶ原の戦いに

勝利した徳川家康は、江戸に

徳川幕府を開きました。

1604年1月に徳川家康から安

堵状が与えられ、蝦夷地の領地

権、徴役権、交易の独占権を得

て、日本最北の藩松前藩が成立

しました。しかしながら、領内

に米の生産がなく、明確な大名

格付けはされず、幕府の『武鑑』

のなかでは、大名の最末席に位

置づけされ、一万石以上家に準

ずる待遇を受けていました。 

    (松前町教育委員会より)

 

松前藩の史書『新羅之記録』の系図

慶長四年は1599年です。

 

藩主は江戸時代の幕末まで、領地替

えもなく松前氏でした。

1604年に家康から松前慶広に発給

された黒印状は、松前藩に蝦夷に

対する交易独占権を認めていました。

藩はサケ、昆布、ニシン、毛皮など

の交易品によってコメに代わる収入

を得たが、その利益は7万石に相当

しました。

1785年にロシア南下を知り、幕府

は調査の人員をしばしば派遣します。

1799年に藩主の松前章広から蝦夷

地の大半を取り上げます。東蝦夷地

の浦川から知床半島までを、7年間

上知することを決め、8月12日には

箱館から浦川までを取り上げます。

上知の代わりとして武蔵国埼玉郡

に5千石を与え、各年に若干の金

を給付します。

1807年の7年後に西蝦夷地も取り

上げられ、陸奥国伊達郡梁川に9千

石で転封となります。

1821年に幕府の政策転換により、

蝦夷地一円の支配を戻され、松前

に復帰します。藩を挙げての幕閣

重鎮に対する表裏に渡る働きかけ

もあってのことです。

これと同時に松前藩は北方警備の

役割を再度担わされることにもな

ります。

江戸幕府は異国船到来の増加を

受けた海防強化のため、松前藩

主となったばかりの松前崇広に

1849年(嘉永2年)7月10日、

新たに築城を命じました。

 

松前崇広の古写真です。

 

現地の解説板です。

正式名は福山城ですが、広島県の

福山城と混同し易いので、松前城

と呼ばれています。

 

1849年に幕府の命令で松前福山

城の築城に着手します。

大館(徳山館)より福山へ移館

した際、1600年(慶長5年)か

ら1606年(慶長11年)にかけ

て建設された福山館を改修して、

松前城(福山城)としました。

函館に新しく築城すると、お金

がかかるので、幕府は福山館を

改修しろと命じました。

 

この福山館を改修して松前城にします。

 

1854年10月に完成させました。

松前福山城を完成させて、福山館

主から、この時やっと城主になり

ました。

 

完成した松前福山城(松前城)です。

 

現地にある松前福山城復元模型です。

左側の海側には台場が並びます。

 

有名な復元天守と本丸御門です。

手前広場は二の丸です。

 

1935年の焼失前の天守古写真です。

1949年6月5日午前1時10分頃に、

国の史跡・松前奉行所跡であった、

松前町役場の当直室から出火した

ものが飛び火して、午前4時には

天守と本丸御門東塀を全焼しまし

た。出火原因は警察の実験の結果、

当直員が電灯の傘を遮光幕で覆っ

て寝たところ、遮光幕が熱を持ち

発火したと判断されています。

1961年(昭和36年)5月16日に復元。

基本構造は鉄筋コンクリート構造によっ

て、外観は焼失前の姿をできる限り忠実

に再現。内部は松前城資料館として利用

されています。

2006年に日本100名城に選定されました。

 

読者募集中、読者登録はここのリンクです。

希望があれば読者(フォロアー)相互登録を

します

1日おきに後午後8時半~9時頃に更新して

す。
登録では「相手わかるように」に設定して

読者登録してください。
読者様のブログはたまに拝見に行き、

「いいね」やブログ村・ブログラン

キング押してもらっていたら、礼儀

として、出来るだけお返しします。

1日あたり約50件のブログを見て

います。

Ctrlキーを押したままで、下の

ボタンを押すと画面飛びしません。

お手数ですがよろしくお願いします。

        下矢印ダウンぽちっと下矢印ダウン押すだけ

                                         にほんブログ村 歴史ブログへ

 

                                         ブログランキング・にほんブログ村へ

 

                                        にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

 

                                        にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ

                                               
                  

ポチお願いします。