新宮城(続日本100名城) 12 最終回 水野忠央 | みどりの木のブログ

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5年前の更新を追加で再UPしてます。

 

前回の続きで最終回です。

直参となっている同族の者が老中など

をつとめて中央政界で重きをなしてい

るのに、初代が家康と従兄であるのに、

御三家紀州藩の附家老であるために、

新宮水野家は幕府から直臣よりも、一

段低い陪臣の扱いをうけてきたという

不満がありました。水野家では2代目

の重良が「陪臣の3万5000石よりも、

直参旗本2000石の方が望ましい」と、

あくまで徳川家の直臣であることを切

望して、付家老職を継ぐのを拒否し、

1年半ほどですが、水野家は無主時代

がありました。このときは将軍家光が、

伏見に屋敷を与えるほか、脇差を賜る

ことで、重良を説得して事態は収まり

紀州藩の附家老に復帰しています。

 

初代の重央は家康と従兄です。

同族は皆さん大名・旗本です。

 

江戸時代後期になると

 

新宮藩9代目で、紀州藩江戸詰附家老

の水野忠央(ただなか)の活躍

 

水野忠央(1814~1865年)は苦労

したのか、52歳で亡くなっています。

1835年(天保6年)に父:啓の隠居

により家督を相続し、江戸定府の附

家老として紀州藩主を補佐しました。

和歌山の地元は紀州藩附家老田辺藩

の、安藤氏が補佐していました。

忠央は譜代大名並みの待遇を切望し、

附家老5家(成瀬家・竹腰家・安藤

家・水野家・中山家)が連帯して、

幕府に待遇改善を要求しました。

また、文化人としても優れ、歴史・

文学・医学などの古典籍を集めた

『丹鶴叢書』を編纂・刊行します。

 

『丹鶴叢書』内の今昔物語抜粋

(仏教大学図書館より)

1847~1853年刊行で歌集・物語・

故実・記録・国史などの 本を集め

たものです。これは水戸藩の『大

日本史』や塙保己一の『群書類従』

と並び称されています。 

 

新宮藩は備長炭という高価な炭と、

熊野の材木により、領地3万5千石

でしたが、実高10万石以上ありま

した。

 

新宮藩9代目の水野忠央の肖像画

 

1846年に紀州藩主:徳川斉順が

死去すると、隠居の元藩主:徳川

治宝は西条藩の松平頼学を新藩主

に推します。忠央は治宝に対する

中傷を交えた妨害工作を展開し、

幕府の強い意向により頼学の藩主

就任を頓挫させます。一方、忠央

は第12代将軍:徳川家慶の側室

に送り込んだ妹のお琴(妙音院)

の子である、田鶴若の藩主擁立

を画策しますが、忠央の権勢を

危惧した紀州藩士の幕府に対す

る働きかけもあり、清水徳川家

の徳川斉彊(先代斉順の弟)が

藩主に迎えられました。

 

大奥に子女を入れることができる

のは、1万石以下の旗本の娘に限

るというしきたりがありました。

忠央には8人の妹がいたが、その

うちのお広という妹を旗本の養女

ということにして江戸城大奥に入

れます。彼女は12代将軍家慶の

お手つきとなり、鐐姫、田鶴若、

鋪姫、長吉郎を産みました。

忠央のそうした大奥工作を財政

面から支えたのが、熊野備長炭

でした。忠央はこの新宮炭を、

幕閣に付け届けとして配ったの

で、「炭屋」と陰口をたたかれ

ました。積極的に大奥工作を進

めて、1857年に幕府で老中で

福山藩主:阿部正弘が死去する

と、徳川斉昭に反発する大奥を

南紀派に引き入れ、1858年に

彦根藩の井伊直弼を大老に就任

させます。

その辣腕ぶりから「土蜘蛛」と

か「まむし」という異名をつけ

られています。特に長州藩士の

リーダーだった長州の吉田松陰

から「奸にして才あり、一代の

豪なり」と評された忠央でした。

攘夷派が多い中で、開国に協力

した意義は大きいですね。

一方では時代を先読みする進歩

的な藩主でもありました。

蘭学を臼井嘉一郎に、英仏語を

柳川春三、宇都宮鉱之進(三郎)

に学んでいた忠央は、藩内外の

英才たちに、蕃書翻訳所で西欧

の原書を翻訳させ、洋式砲術や

造船・航海術などを研究させま

した。

1827年に王子ケ浜で滝川儀蔵

が大筒(木製)を撃ち、藩士に

見学させます。1857年には、

城下の片山(浮島付近)に砲

術試練場を設置しました。

ペリーの艦隊がやってきて以来、

幕府は200年つづいた大船建造

の禁令を、ペリー来航の1853

年に撤回します。

新宮藩ではその6年後に本格的

な洋式帆船丹鶴丸を建造します。

大脇道之助が手がけた三本マス

トのこの丹鶴丸は、船の全長が

水際で13間半(24.3m)あっ

たそうです。

 

3本マストの洋式丹鶴丸(1859年)

 

ただ、バランスが悪かったため

に池田港での進水式で横に寝て

しまったので、「池田屋の新造

横になりたがり」という狂歌が

新宮城下に出まわります。

半ば沈みかけていたこの丹鶴丸

にバラストの砂利を入れて姿勢

を立て直し、江戸に回航したの

が洋学者の宇都宮鉱之進でした。

江戸では黑く塗っていたために、

また黒船が来たと勘違いされて

います。

 

老中への宿望が着々と実現しか

けていたとき、頼みの大老井伊

直弼は、1860年に桜田門外で

水戸浪士に暗殺され、忠央の運

命も暗転します。大老暗殺のあ

と、忠央は幕府から慎(隠居慎

み)の処分を受け、歴代の新宮

藩主では、初めて領地の新宮に

隠遁せざるをえなくなります。

家督を嫡男の忠幹に譲って隠居

しました。

 

水野忠幹の古写真です。

 

江戸から新宮へと向かう船で

詠んだ忠央の和歌は、

「武蔵野を君立ちいなば山鳥や
   うかれ烏の声のみやせん」

 

1864年に隠居謹慎処分は解

かれました。しかし、

1865年に新宮城で死去。

享年52

 

これで新宮城紹介は終ります。

次回からは熊野速玉大社の紹介です。

 

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