新宮城(続日本100名城) 10 本丸から本丸下の帯曲輪 | みどりの木のブログ

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5年前の更新を再UPしました。

 

前回の続きです。

今回は本丸から本丸下の帯曲輪です。

 

本丸の石垣が崩落した場所に

造られた道です。

赤い線に沿ってεの所に行く

 

εから下に降りる道があります。

石垣崩落前にはこの坂道

の上に天守がありました。

 

ζのところに行くと

 

ζから来た道と降りる道を

撮影しました。矢穴のある

石が見えます。拡大すると

 

石に等間隔のの穴を穿ち、そこに

矢を打ち込んで、亀裂を入れて石

を石を切り出しました。

 

坂を降りて、曲がり角を曲がった

η付近で撮影すると

 

 

 

η付近から鐘の丸方向です。

柵で囲った通れない所は、

ケーブルカー施設跡と思

います。

 

A駐車場横にケーブルカー軌道跡

があります。観光のために昔は、

短いケーブルカーがありました。

 

下図ηからΘ方向です。

 

Θからλ方向は

 

上図Θからλ方向です。

ここは本丸下の帯曲輪

で、前方には江戸時代

中期以降に隅櫓が2つ

ありました。(下図)

現在は休憩所が建って

います。

 

赤⑰の下に櫓が2基

描かれています。

 

λのところにいくと

 

λ付近からΘ方向です。

右端の建物は休憩所です。

 

Θとμ方向です。

赤い線に沿って降りました。

天守跡の天守台の石垣が崩落

したのが分かります。

右端に記念碑があります。

カメラを少し右に回すと

 

川上不白の顕彰碑と帯曲輪方向です。

川上不白は享保四年(1719年)に、

紀州新宮に水野家の家臣川上家の次

男として生まれました。水野家は

紀伊藩江戸詰家老職なので、江戸で

仕官した不白は、十六歳の時に主君

の指示により、水野家茶頭職になる

ために表千家七代如心斎の元で修業

を続けました。
茶の湯は当時、社交接待、稽古事と

して大衆化の時代に入り始めていた

が、不白は師如心斎から茶の湯のあ

るべき姿を学びます。1745年には

如心斎より茶湯正脈が授与されて、

1750年には真台子が伝授されます。
江戸に帰府した不白は、水野家茶頭

職としての活動を始め、江戸の武家

社会に千家流の茶を伝えました。

現在、各地に江戸千家の茶が伝承さ

れているのも、当時江戸に集る大名

やその家臣により不白の茶が受け入

れられ、各々の国に持ち帰えったこ

とによります。

   (江戸千家Webページより)

 

Κの方に行くと

 

Κからλ方向です。

この反対側は

 

Κより奥の方向です。

 

λから配水池方向は

 

λから下に見える配水池です。

 

 

上図B付近にある案内板です。

 

 

 

 

 

赤い線に沿って橋を渡ると

 

熊本地震でも石垣角の算木積の

部分は強固なので崩壊しません

でしたが、新宮城でも角の算木

積部分が壊れませんでした。

 

倉本隆之氏制作のジオラマです。

天守下の帯曲輪付近です。

 

 

今回はここまでで、次回に続く

 

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