新宮城(続日本100名城) 8 本丸搦手口と丹鶴姫 | みどりの木のブログ

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追加で5年前の更新を再UPしました。

 

前回の続きです。

今回は本丸搦手口と丹鶴姫です。

 

下図U付近からW方向です。

 

1644年正保絵図です。

W付近に行くと搦手門跡が

ります。江戸時代初期にあ

った、上図の搦手門が塞が

れています。

 

W付近にある搦手門(裏門)跡です。

上図1644年正保絵図にはない

ので、江戸中期以降に造られ

た門跡です。石垣は面取り・

谷目地に石表面を高く膨らま

せた、当時最高の石化粧法で

す。

右に回り込むと

 

 

 

 

 

Bにある案内板です。

 

X付近には丹鶴姫の石碑があります。

 

丹鶴姫(たんかくひめ)之碑

です。この名から丹鶴城とも

言われます。

近くには解説板があります。

 

丹鶴姫の解説石板です。

読み難いですが内容は

「丹鶴姫はその出自定かでは

ないが、
源為義と熊野別当の娘・立田

御前を父母とし「たつたはら

の女房」と呼ばれ頼朝はその

甥にあたる。
弟に新宮十郎行家あり。
共に新宮で育つ。長じてこの

丹鶴山に東仙寺を開基し熊野

別当行範に嫁した。
夫亡きのち鳥居襌尼と号し、

紀伊国佐野庄などを安堵され

没後、山麓に葬られたという。
茫々八百有余年。
丹鶴城址に立ちて弔えば源家

興隆を祈念した姫の魂魄:こ

んぱく: 見張るかすわだつみ

より清風に乗って来たるの想

いがする。
冀くは芳魂この地に留まりて

とこしえに熊野の天地を守り

給わらんことを
       昭和六十年三月
新宮市暮らしを考える主婦の会 」

 

 

下の系図にあるように、丹鶴姫は

源為義の子供で、姉弟の源行家と

は姉弟で、この地で育ちました。

頼政は行家を八条院蔵人に推した

うえ、「平家を討つように」とい

う以仁王の令旨を伝達する使者と

して白羽の矢をたてた。行家は

熊野の山伏姿に身をやつして、

近江、美濃、尾張と源氏の残党

を説いてまわります。旧名の

「義盛」から「行家」に改名し

たのは、熊野別当第19代の行範

とのかかわりを強調する「行」

がついているほうが諸国に散ら

ばっている熊野山伏たちの庇護

を受けられたからです。(下図)

 

行家は頼朝に、父:義朝のどくろ

と後白河天皇の第三皇子:以仁王

の令旨を持って行き、平家打倒を

訴えました。行家の最後は義経と

共謀で、頼朝に挑みましたが敗れ

ています。

 

河内源氏略系図

丹鶴姫は行家の姉です。

為義が院の熊野御幸に検非違使と

して随行した際のこと。第15代

熊野別当長快の娘(「熊野の女房」

または「立田の女房」と呼ばれた)

を為義が見初めて結ばれました。

娘は身籠り、新宮で一女一男を産

みました。その女児が丹鶴姫で、

そして、男児が新宮十郎行家です。

 

姉の丹鶴姫は、第18 代熊野別当

湛快の妻とな男児をもうけます。

それがのちに第21代別当となる

湛増でした。夫の湛快の死後、

19代別当行範(鳥居法眼)のも

とに再嫁したとされる丹鶴姫は、

22代別当行快や行忠、長詮を産

み、鳥居禅尼と称して、源平の

騒乱で揺れる新宮にあって強力

な熊野水軍を源氏方につけるの

に大きな役割を果たしました。

義仲の挙兵、頼朝の義仲討伐に

も、また義経が一の谷で平家を

破ったときも事態を静観してい

た湛増は、戦局が進むにつれ、

源平いずれにつくか迷いました。

そこで、湛増は田辺の今熊野権

現(闘鶏神社)の社前で白い鶏7

羽、赤い鶏7羽を蹴合わせて神

意を伺ったといいます。白は

源氏、赤は平家の象徴でした。

蹴合いは白い鶏が勝ちます。

熊野水軍の兵船200余艘に乗

った屈強の熊野衆2000余人は、

屋島から壇ノ浦へと出陣します。

源氏の白い旗が、船のへさきに

ひるがえるのを見た平家の軍兵

は、西の海へと落ちました。

 

源平の乱後、丹鶴姫(鳥居禅尼)

は、その功績によって、甥に当

たる将軍頼朝から紀伊国佐野庄(

現和歌山県新宮市佐野)、紀伊国

湯橋(現和歌山市岩橋)、但馬国

多々良岐庄(現兵庫県朝来町多々

良木)などの地頭になりました。

 

最後に

新宮に伝わるもののけ姫:丹鶴姫

(たんかくひめ)の伝説。新宮市

の熊野川河口付近にある新宮城跡

(丹鶴城趾)には、日暮れになる

ともののけの姫が出るという伝説

があります。

新宮出身の作家、佐藤春夫の著作

「わが生い立ち」より引用。

 「丹鶴城主の姫君の丹鶴姫は子供

が好きださうで、 夕方、 子供が一

人でそのあたりを通つてゐると、 

緋の袴の姿で丘の上へ現れて来て

扇で子供をまねく。 招かれた子供

は次の日の朝になると死んでゐる

といふのである。 その丹鶴姫の使

いが黒い兎で、 子供の通る道の前

をひよいと横切ることがある。

 やつぱりそれを見た子供は死なな

けりやならないともいふ。 黒い兎

なら暗がりのなかでは見えないか

も知れない。自分の見ないつもり

のうちに、 もしや黒い兎をみたの

ぢやないだらうか 私はそんな空

想に怯えたこともあつた。 丹鶴姫

といふのはどんな人だか知らない

が、 城山の向ふの丘には一つの小

さな社があつて、 そこを皆が丹鶴

姫の祠だと言つてゐる。……  」
    (佐藤春夫「わが生い立ち」)

 

以上は新宮市観光協会Webページより

 

今回はここまでで、次回に続く

 

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