新宮城(続日本100名城) 1 歴史 | みどりの木のブログ

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今回からは新宮城(続日本100名城)

の紹介です。第1回は城の歴史です。

 

Google地図の新宮市です。

新宮城は、熊野川沿岸の田鶴原

と呼ばれたあたりの小高い丘で

ある丹鶴山に築かれた平山城で

す。別名は丹鶴城でもとこの地

に、源為義と熊野別当の娘の子

である丹鶴姫の住まいがあった

そうです。 源為義 ( 保元の乱

のとき崇徳上皇方に立って敗れ、

 1156年に殺害される) には、

新宮に (院の御幸警護で熊野

に来た時になした) 2人の子

がいた。2人は 丹鶴姫と新宮

十郎行家 がそれで、 2人はお

城山の南麓にあった熊野別当

の屋敷で育ちました。
丹鶴姫は熊野別当(長官 )の 

行範の妻となって、 その邸が

ここにあったことから、たつ

たはら (田鶴原:いまの新宮

郵便局あたり一帯をさす) の

女房と呼ばれました。

ある時、 平家方に立つ田辺の

(のちの別当)湛増が(源氏

方の)新宮の虚をついて新宮

に攻め入ったとき、 たつた

はらの女房 (つまり丹鶴姫)

 は新宮軍をよくまとめて、

 激励して田辺軍を敗走させ

たそうです。
新宮十郎行家は以仁王の令旨

を源頼朝、 源義仲ら各地の

源氏に伝えて、 平氏討伐の

挙兵を促したことでよく知

られます。 義仲と結んだが

のち対立し、 平氏滅亡後は

義経と結んで頼朝と対立し

ますが敗れて、 頼朝方によ

って 1186年に殺されまし

た。

 

1600年に関ヶ原の戦いで東軍

に味方した、浅野長政の長男:

幸長は関ヶ原の戦いで功あり、

紀伊国和歌山37万石へ加増転

封されます。(下図)

 

浅野家の家系図です。

長勝が宗家に婿養子で入ります。

その子に浅野長政や寧々がいます。

長政の長男:幸長が後を継ぎます。

 

浅野幸長の肖像画です。

1613年8月に幸長は和歌山で

病死します。享年38。幸長に

は男子がなかったため、次弟

の長晟(下図)が家督を継ぎ

ます。幸長の死因は「當春又

無右衛門尉」という遊女でし

た、美女(男?)を召し置い

て慰んでいたが、これがもと

で早世したようです。唐瘡

(梅毒の末期症状)へ至った

性病による死であるようです。

梅毒は伝染力が強く、キスだ

けでもうつるそうです。

 

幸長の父:長政と浅野忠吉は従兄の

関係でした。

 

新宮城を築城したのは浅野忠吉で、

一国一城令により一度廃城した後、

忠吉が再築城した新宮城には、大

・小の天守や二ノ丸(水野氏時代

には鐘ノ丸)などがありました。

 

1619年の福島正則改易に伴い、

浅野家が安芸国:広島藩に移され

ると、それまで駿府藩主だった、

徳川家康の十男である徳川頼宣が、

浅野の旧領に南伊勢を加えた55万

5千石で入部、紀州徳川家の治め

る、御三家紀州藩が成立します。

新宮城主の浅野忠吉は、広島に

移り広島浅野家の家老として、

去年紹介した、三原城の城代と

なりました。徳川氏の重臣であ

った、水野重央(しげなか)が

付家老として石高は3万5千石で、

 新宮城に入りました。

 

水野重央の肖像画です。(全正寺蔵)

 

紀州藩付家老の水野家系図です。

家康と重央の関係が分かります。

あと去年暮れに紹介した、福山

藩主水野勝成が重央の従兄です。

 

浅野忠吉が始めた築城を引き継

ぎました。その工事は長期間続

き、1633年にようやく完成し

ました。

 

正保1644年の絵図です。

 

現在の案内マップです。


丘の上にはいくつもの建物があ

り、三層の天守もありました。

石の加工や石垣として積み上げ

る方式がそれまでに随分と進化

していました。新宮城は、その

進化した技術を存分に享受でき

た数少ない城の一つです。

この城のもう一つの特徴は、

川沿いにある水ノ手郭です。

ここは城の初期には恐らく

水軍のための港として使わ

れたと思われます。しかし、

平和な江戸時代には、この

曲輪にはたくさんの炭納屋

がありました。木炭がこの

城から江戸や大坂などの、

大都市に向けて売られたの

です。紀州藩はこれによっ

て利益を得ていたのです。

実質10万石以上の規模だ

ったようです。

日本の城でこのような経済

活動が行われた事例は稀で

す。水野家は幕末に炭屋と

まで言われました。
 

その後10代にわたり長い

統治が続き、明治維新を迎

え、1868年に独立した藩

と新政府から認められます。

 

貰ったパンプレットからの引用です。

復元に向けて高額懸賞金で城の古写真

や設計図を探しています。

 

1871年8月(明治4年7月)には廃藩

置県により旧藩庁に新宮県庁が置かれ

たが、1872年1月(明治4年11月)

に和歌山県と合併した。

1873年(明治6年)の廃城令より、

天守などの建物を払い下げます。

1875年(明治8年)までにすべて

取り壊されて、旧材は寺院などに

転用されました。

1891年(明治24年)には二ノ丸

(上屋敷)跡に天理教南海大教会

が開設され、1972年(昭和47年)

に移転すると、天理教会婦人部が

経営する現在の正明保育園が開園

しています。

 

明治末から大正初期の古写真です。

1873年(明治6年)の廃城令より、
天守などの建物を払い下げます。

1875年(明治8年)までにすべて
取り壊されています。上の古写真

では石垣しか残っていません。

 

紀州藩付家老で紀伊新宮藩

の最後の藩主、水野忠幹は、

1869年(明治2年)の版籍

奉還で知藩事に転じたのを

経て、1871年(明治4年)

の廃藩置県まで知藩事務め

ます。

 

最後の藩主水野忠幹の古写真です。

 

1884年(昭和17年)7月

8日に男爵に叙されました

忠幹の長男の水野忠宜は、

陸軍に入隊したのですが、

八甲田雪中行軍遭難事件で

遭難死します。忠幹の死後

にはその七男の水野忠武が

爵位を継承しました。

 

2003年(平成15年)8月、

新宮城跡は水野家墓所とと

もに「新宮城跡附水野家墓

所」として国史跡に指定さ

れました。2017年(平成

29年)4月6日に、続日本

100名城になりました。

 

今回はここまでで、次回に続く

 

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