三原城(続日本100名城) 7 小早川隆景公園と隆景 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

5年前にUPしたブログを再UPしました。

 

前回の続きです。

今回は小早川隆景公園と隆景です。

 

下図赤枠にある隆景広場の北

側の西国街道です。

この付近の堀端には

 

広島原爆死没者慰霊碑があります。

 

隆景広場の石碑があります。

 

天守台西南部の石垣です。

JR三原駅との境目です。

隆景時代の築造なので、

算木積が不完全です。

 

天守台石垣の解説板です。

 

赤枠の所に隆景広場があります。

 

Google地図です。

隆景広場には隆景像があります。

 

隆景広場です。

 

黄梅の木があります。

 

解説板です。

隆景の戒名に黄梅院とあるので、

黄梅の木を植えています。

 

小早川隆景銅像です。

ズームUPすると

 

隆景広場にある隆景銅像です。

 

東廬山米山寺(小早川家菩提寺)

所蔵の隆景肖像画です。

禄3年(1594)に描かれた、小早川

隆景の寿像(生前に描かれた肖像画)

です。米山寺は小早川家菩提寺です。

 

東廬山米山寺所蔵の隆景木像です。

 

京都市北区の龍寶山大徳寺塔頭

黄梅院所蔵の肖像画です。

 

小早川隆景(1533~1597年)

 

毛利元就と正室の妙玖夫人の三男

として、吉田郡山城で生まれます。

幼名は徳寿丸で、長じて又四郎と

称しました。

1541年3月、竹原小早川家の当主

である小早川興景が、佐東銀山城

攻めの最中に病死します。興景に

は継嗣がいないので、竹原小早川

家の重臣らは、毛利元就に対して、

徳寿丸を後継に希望します。大内

義隆の強い勧めもあり、毛利元就

はこれを承諾します。興景の妻は

元就の兄:興元の長女であり、そ

れゆえに竹原家は、隆景を養子に

希望したようです。

 

1544年竹原小早川家当主となり、

そのときに「隆景」の隆の字は、

大内義隆の「隆」の一字を賜り

ました。「景」は養父:興景の

一字です。

 

1547年15歳のときに、備後の

国神辺城攻めが初陣でした。

大内義隆が備後国神辺城を攻め

たときに従軍したもので、隆景

は兵数1300人で、福山にある

神辺城の支城である龍王山砦を

小早川軍単独で落とすという功

を挙げ、義隆から賞賛されます。

 

現地で配布された資料より

 

1550年に小早川氏の本家だっ

た沼田小早川家の当主である、

小早川繁平は若年で病弱なう

え、眼病により盲目となって

いました。本家家中は繁平派

と隆景擁立派で対立し、大内

義隆は尼子氏の侵攻に堪えら

れないのではと懸念した。

大内義隆は毛利元就と共謀し、

乃美隆興・景興父子を中心と

した隆景擁立派を支援します。

尼子氏との内通の疑いで繁平

を拘禁し、隠居・出家に追い

込みます。そして隆景を繁平

の妹(満州)に娶せ、本家の

沼田小早川家を乗っ取る形で

家督を継がせ、18歳で結婚

し、小早川17代目当主とな

り、沼田と竹原の両小早川家

を統合します。

その時、繁平派の田坂全慶

ら重臣の多くが粛清されて

います。

隆景は占領地住民に大量の

兵糧と鮮魚を配布しました

ので、住民から神の軍と呼

ばれました。

 

1551年に小早川本家の城

である、高山城に入城しま

す。

1552年の20歳のときに、

対岸にあった元砦に新高山

城を築城します。

 

現地で配布された資料より

沼田川を隔てて対岸にあります。

 

1555年に23歳で厳島合戦で、

毛利軍と陶軍の戦いに従軍し

ます。小早川水軍100隻と、

村上水軍300隻で毛利本隊

は3000人でした。対する、

陶軍は600隻で兵2万人で

した。海が荒れた時に元就

は本隊3千を厳島の陶軍陣

地の背後に上陸して、奇襲

攻撃で勝利します。

 

隆景は毛利本隊の別動隊として

活躍します。

 

1567年35歳のときに、新高山

城の前進基地として、三原城を

築城します。小早川水軍の本拠

地にします。

その後新高山城の石を運んで、

こちらを本拠とします。

 

三原駅構内にある大きな三原城

の絵です。

 

1576年44歳のとき、鞆に足利

15代将軍の義昭が、信長に追わ

れて落ち延びてきます。

毛利家は織田家と前面対決する

ことになります。石山本願寺を

救援するため、第一次木津川口

の戦いで、小早川水軍・村上水

軍が主力の毛利水軍が、織田家

の九鬼水軍を破り、石山本願寺

に食料や武器を搬入しました。

 

戦国バトルヒストリーより引用

 

1579年の第2木津川口の戦い

では、鉄甲船を配備した九鬼水

軍に大敗します。

 

戦国バトルヒストリーより引用

 

1582年50歳のとき、備中高

松城の戦いで、秀吉の中国大

返しを黙認した隆景は、以後

秀吉から信頼される。

 

1585年53歳のとき、秀吉軍

に従って、泉・紀州攻めに参

加する。

 

1587年55歳のとき、筑前・

築後に移封されて、36万石

の大名となる。

 

1592年60歳のときに、朝鮮

に出陣

1593年61歳のときに、帰国

 

1594年62歳のとき、秀吉の

甥:秀秋を養子に迎える。

 

小早川秀秋肖像画

1594年に秀秋と毛利輝元養女

の古満姫との祝言では、三原

城で数日間に渡り、お鷹狩や

舟遊びをします。

 

1595年63歳のとき、従三位

権中納言で、五大老になる。

 

1597年65歳のとき、秀秋に

家督を譲り、隠居所の三原城

に入る。

 

1597年65歳のとき、三原城

で関ヶ原の戦いより前に死去

します。三原市東廬山米山寺

に葬られる。五大老の欠員は

毛利輝元が引き継ぎました。

 

小早川隆景の墓

 

今回はここまでで、次回に続く

 

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