福山城(日本100名城) 1 歴史 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

今回からは福山城(日本100名城)の

紹介です。

第1回目はその歴史です。

2023年10月13~14日に訪問しました。


天守5階から見た新幹線福山駅です。

 

福山城築城まで、福山城周辺は「杉原保」

と呼ばれ古代から荘園として栄えていまし

た。安土桃山時代には「野上村」と改称さ

れ、福山城の建つ丘陵は北側から連なる山

並みの先端部で「常興寺」と呼ばれる寺が

ありました。常興寺は築城に際して隣接す

城下吉津村に移され、野上村は城下南西の

新開地に移されました。

南側は海が迫る芦田川のデルタ地帯で、そ

の大部分は湿地帯や田畑でした。

備後南部中心地は福山城から北東約6km

に位置する西国街道沿いの神辺で、ここ

に備後国の政庁である「神辺城」があり

ました。

 

Google地図です。

 

また、福山城から南約12kmに

ある鞆の浦が海上交通の要衝で

した。

1615年の大坂夏の陣で、豊臣

家は滅亡します。

1619年に福島正則が、広島城

の改修を許可なしで行ったため、

「武家諸法度」に反し、福島家

は改易になりました。

 徳川家康の従兄弟であった水野

勝成 が毛利氏など西日本の有力

外様大名に対する抑えとして、

備後国東南部と備中国西南部の

計10万石を与えられ、大和国

の郡山藩から転封します。

 

水野勝成と家康の相関図です。

 

水野勝成の肖像画です。

 

一国一城令が徹底されていた、

この時期としては異例の新規築

城でした。

入封時の領地目録上は備後神辺

城主でしたが、勝成の進言によ

り神辺城はやや内陸にあり過去

に何度も落城した歴史があった

ことから認められました。

1622年に福山城が竣工しまし

た。 

 

1644年の福山城正保地図です。

 

輪郭式の平山城で、不完全です

が2重の堀や、瀬戸内海へ抜け

る運河を持っています。また、

五重の天守と7基の三重櫓があ

りました。10万石の大名として

は破格の大きさです。西国外様

大名への押さえの城として造ら

れたのでしょう。干潟であった

南側は干拓されて城下町が開か

れ、町は福山と名づけられまし

た。この時代は縁起のいい漢字

を使う例が多いです。

「福」「松」「鶴」「亀」など。

城の用材には福山城の築城に伴

い廃城となった神辺城や、江戸

幕府より下賜された、徳川が再

建した伏見城の建造物もありま

す。伏見城から移築された建造

物としては伏見櫓や月見櫓・御

殿(伏見御殿)・御風呂屋(御

湯殿)・鉄御門・追手御門・

多聞櫓・塀などがあります。

築城後にも幕府公金12600両・

銀380貫が貸与され、天下普請

に準じる扱いを受けています。

 

江戸時代の堀を重ねた図です。

堀はほぼすべて埋め立てられ

ました。

築城時の縄張りは若干の改修

はあったものの廃城までほぼ

同じでした。

1698年に跡継ぎ無しで水野

家断絶します。
1700年に松平忠雅が入封し

ます。

1710年に松平氏は移封され

ます。
1710年に 阿部正邦が入封し

ます。藩主はほとんど江戸に

住んでいました。

1730年には本丸御殿の奥向

部分が江戸藩邸に移されます。

 

本丸御殿間取図です。

ピンク部分が奥向きでしょう。

 

1750年には二の丸下段の城

米蔵が取り壊されました。

 

1865年に阿部家9代藩主の

阿部正方が第二次長州征伐

参加のため石見国へ出兵す

ることになり、その準備を

行っていたところ、二の丸

南側の櫛形櫓で火薬が爆発

し隣接する鎗櫓・鉄砲櫓・

番所が、櫓内の武器と共に

焼失します。戦いは敗れて

福山城に戻りました。

1868年に西国における、

幕府側の福山城が初めて

攻撃を受けます。

新政府軍はまず城の北西

にある円照寺に陣取り、

福山城の北側から大砲に

よる攻撃を開始します。

 

当時天守北側は鉄板貼でした。

城の北側が防御の弱点でした。

 

 

その後、新政府軍は城内

へと進攻し小丸山や天神

山から城に銃撃を浴びせ

ました。

 

17世紀後半の福山城です。

 

新政府軍が本格的な攻撃

を開始する前に福山藩は

恭順を許されました。城

下は戦火から守られたが、

福山藩兵は新政府軍の先

兵として危険な前戦に送

られました。

 

明治維新後は

 

1873年(明治6年)の廃

城令により福山城は廃城と

なり、ほとんどの施設は民

間に払い下げられ、建物は

建築資材として売却・解体

されます。天守・伏見櫓・

筋鉄門・御湯殿・鐘櫓・

涼櫓などは、地元の保存嘆

願により残りました。

本丸を除いた敷地のほと

んどが売却され、宅地や

農地などになりました。

1875年に「福山公園」

として整備されました。

維持費用が出せないので、

福山町は県に公園の移譲

を請願します。

1897年に広島県が天守・

伏見櫓・筋鉄御門・御湯

殿を修理しました。

1931年に天守が国宝指定。

1933年に伏見櫓・筋鉄御門・

御湯殿が国宝に指定されます。

1945年8月8日に米軍の空襲

(福山大空襲)により天守・

御湯殿・涼櫓などが焼失しま

す。

 

終戦後は

 

1964年に本丸・二の丸が

国の史跡に指定されたので、

民有地であった二の丸は買

収されました。

1966年に福山市の市制50

周年記念事業として天守・

月見櫓・御湯殿が復興され

ました。すべて鉄筋コンク

リートで再建されています。

 

南側から見た復元天守です。

 

1973年に市民らの寄付に

より鏡櫓が再建されます。

1979年には福山市により

鐘櫓が再建されます。

2006年に福山駅北口に面

する二の丸石垣の下は内堀

だったので親水施設が造ら

れますが、本来の内堀とは

規模・形状は全く異なって

います。

 

親水施設です。

堀の幅が狭くて復元もする気なし。

堀に関しては復元の意欲に欠けて

います。

 

2006年に日本100名城に

選定されました。

 

鳥のお喋り動画お借りしました。

(53秒)

 

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