新発田城(日本100名城) 22 最終回 蔵の資料館  後編 | みどりの木のブログ

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前回の続きです。

今回が新発田城の最終回です。

蔵の資料館 の後編です。

 

溝口家以前の新発田は新発田

重家が支配していました。

彼は御館の乱で上杉景勝側に

味方していますが、働きのわ

りに恩賞が少なく、上杉家に

戦いを挑みます。織田信長と

協力して、上杉家を追い詰め

ますが、本能寺の変で信長の

援助が無くなります。一方の

上杉景勝は秀吉の手下となり、

新発田重家を滅ぼしました。

 

新発田重家肖像画です。

(福勝寺蔵)

 

新発田重家の軍令書です。

新発田家は佐々木氏の分家

なので、佐々木因幡守とも

名乗りました。

 

新発田家が滅んだ後に、

上杉家は秀吉により、

会津に領地替えとなり、

越後には堀秀治が15

98年(慶長3)に転封し

て、重臣の堀直政が、

豊臣家より三条城で、

5万石を与えられて,

蔵入地代官を兼ねます。

また与力として、新発

田に溝口秀勝が入りま

す。

 

堀直政の木像です。

父は奥田直純,母は堀秀政の伯

母です。堀秀治の宗家を仕切

っていた堀直政です。

 

堀家改易の際には堀家の

家臣の一部を召し抱えています。

 

堀秀治の与力(配下)だった溝口秀勝です。

気の合いそうな2人でした。堀家は改易に

なりますが、溝口家は1598年に秀吉の命

で新発田6万石に入封して、1869年の版

籍奉還まで移封がありませんでした。

河川改修や開墾などにより10万石の大名

に育ちました。

 

朝倉義景の子・愛王丸を匿って、成長後

は溝口姓を名乗るが、家紋は朝倉家と同

じでした。藩重臣の溝口伊織家として続

きました。

 

 

 

堀部安兵衛が江戸に出るまで、

愛用した刀です。

 

名刀兼元を軍刀として、

実戦使用したものです。

このような武器の展示も

あります。

 

明治初年の新発田藩家中

屋敷割図です。

 

 

蔵資料館の全景です。

 

これで新発田城の紹介は終りです。

次回からは沖縄の首里城(百名城)

の紹介です。
 

 

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