新発田城(日本100名城) 21 蔵の資料館 前編 | みどりの木のブログ

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前回の続きです。

今回は蔵の資料館です。

下図10・11・12です。

 

Uの庭門を出て、V地点に行くと

 

上図10・11・12の蔵の

資料館があります。

10は新発田藩資料館

11は堀部安兵衛伝承館

12は清水谷蔵所資料館です。

 

この建物はもと新発田市五十公野

にあった酒蔵です。明治中頃にこ

の地に移築し、米蔵として利用さ

れました。約1万俵の米を保管で

きました。現在は蔵の資料館とし

て、郷土資料展示や食堂として利

用されています。

 

 

 

ここは10は新発田藩資料館

入口です。ここからまとめて

一部の展示だけを紹介します。

たくさんの展示がありますの

で、是非現地に行ったら見る

ことをお勧めします。

 

屏風や壺の展示があります。

 

これは江戸の名所図屏風です。

 

正保2年(1645年)の越後国

絵図です。

 

戊辰戦争で官軍に味方した

ので、朝廷より賜る旗です。

 

栄姫(薫子妃)結婚時の古写真です。

栄姫は(11代 ~1867年 溝口直溥)

の弟の子供です。有栖川宮熾仁親王妃

になりました。

熾仁親王は和宮親子内親王と婚約して

いましたが、徳川幕府の権力失墜に伴

い、和宮は公武合体策で、江戸幕府が

徳川将軍第14代徳川家茂と結婚します。

それで、熾仁親王は徳川慶喜の妹徳川

貞子を、明治維新後に最初の妃として

迎えます。貞子は婚儀の2年後の23歳

で病没。明治6年(1873年)7月に旧

越後新発田藩主溝口直溥の弟の娘栄姫

(薫子妃)と再婚しました。

 

溝口家血縁図です。

大倉財閥の喜八郎は武器御用達

商人として出世しました。

 

栄姫の古写真です。

右から2人目かな?

 

栄姫(薫子妃)維新後の古写真

西南戦争のさなか、佐野常民や大給恒から「博愛社」

(後の日本赤十字社)設立の建議を受け、官軍のみ

ならず逆徒である薩摩軍も救護するその精神を熾仁

親王は嘉し、中央に諮ることなくこれを認可します。

薫子妃は日本赤十字社にも関わりました。

 

明治40年頃の溝口家の古写真です。

 

写真の名前です。

 

古写真の展示がたくさんあります。

これは3の丸の大手門です。構造

は馬出構造でした。

 

 

 

下図に西の門があります。

 

 

 

古写真はこれまでにも紹介してい

ます。

 

清水園書院前で撮影(昭和12年)

された、歩兵16連隊出征のとき

の古写真です。連隊の一部の兵士

が写っています。

池のボートに乗っている人もいま

す。今では中国が強国になり、出

征なんて考えられないですね。

 

昭和2年頃約100年前の

足軽長屋古写真です。

この長屋は幕末に建設され

たので、昭和初め頃はまだ

使われています。

 

昭和12年の足軽長屋水害

古写真です。新発田川が氾

濫しています。

 

2011年金八先生「最後の贈る言葉」撮影

で、足軽長屋が使われました。

 

今回はここまでで、次回が最終回です。

 

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