沼田城(続日本100名城) 1 歴史 | みどりの木のブログ

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沼田城模型追加で再UPしました。

今回から沼田城(続日本100名城)の

紹介です。

今回は沼田城の歴史です。

 

沼田市は群馬県の北部に位置し、四方を

山に囲まれた盆地を中心として、利根川

や薄根川周辺には非常に高い河岸段丘が

発達しています。

 


現地ポスターより

河岸段丘の上と下で、標高差が80m

もある台地の上に築かれた城下町です。

 

沼田公園のある崖上の台地に最初に城

を築いたのは、鎌倉時代以来この地方

の有力者であった沼田氏の12代万鬼斎

顕泰(ばんきさいあきやす)で、天文

元年(1532年)の頃であるといわれ

ます。下図のように利根川と薄根川に

囲まれた、河岸段丘上の先端に沼田城

があります。

 


Google地図です。


沼田市倉内にあり、倉内城とも呼ばれた

この城は、関東へ至る要衝の地にあるこ

とから越後の上杉氏や、小田原の北条氏、

甲斐の武田氏などの戦国大名によりめま

ぐるしい争奪が繰りひろげられることに

なりました。

1560年前に後北条氏による上野進攻の

なかで、山内上杉氏か後北条かどちらに

属すかを巡り沼田氏一族がお家騒動を起

こします。結果は後北条方が勝ったので、

後北条氏出身の沼田(北条)康元が城主

となっていました。

 

1560年に長尾景虎(上杉謙信)が越山

し沼田城を落とします。上杉謙信に味方

した、沼田顕泰は沼田の国人(沼田衆)

の頭になりますが、城は景虎の直属の、

上杉家の「沼田三人衆」と呼ばれる上野

家成、河田重親、松本景繁による、城代

支配となります。

 

1578年に謙信死後に起こった御館の乱

により沼田城は後北条氏が制圧します。

城代に猪俣邦憲、金子泰清らを置きます。

同年、甲越同盟の成立で上杉景勝が武田

氏の沼田攻略を承認し、武田勝頼の命で、

真田昌幸が攻略を始めます。
1580年に真田昌幸が城代の泰清に調略

を仕掛け、また昌幸の叔父・矢沢頼綱が

沼田に攻め入ってこれを無血開城させ、

武田氏の家臣真田氏が沼田を支配下に置

きます。

1581年に後北条方と由良氏の支援をうけ

た、顕泰の子・沼田平八郎景義を謀殺し

て、真田氏は沼田氏を滅亡させました。

 

沼田平八郎景義の首を晒した平八石です。

 

これ以後、この地の領有を主張する北条

氏とこれに応じない真田氏との間に沼田

城をめぐって攻防が続きます。

1585年に関白となった秀吉は大名間の

領土紛争を「私戦」と断じてこれを禁止

する、いわゆる「惣無事令」を発しまし

た。

秀吉により沼田城は北条氏で、その北東

ある名胡桃城(なぐるみじょう)は、

真田氏の領地と決められます。

 

沼田城の捨曲輪から

北東に見える名胡桃城です。

 

1590年に北条氏が名胡桃城を攻略した

ために、秀吉が怒り北条氏の小田原征伐

が起こり、北条氏が滅亡します。

秀吉は真田昌幸に対し信濃2郡と利根・

吾妻の旧領を安堵し、昌幸は沼田城を

嫡子の信幸に与え信濃国上田へ移りま

した。

 

真田信幸は関が原の戦い以後に、父

から貰った「幸」の字を、徳川家に

忖度して「之」に変えています。

 

真田信幸(之)の肖像画です。

 

2万7千石の真田氏初代沼田城主となっ

た、信幸は近世的な城郭の整備にとり

かかり、二の丸、三の丸、堀、土塁、

大門等の普請の後、1597年には天守

が完成したと云われています。

 

信幸時代の沼田城想像絵図です。

 

五層の沼田城天守想像復元図です。

幕府に提出した城絵図や古文書から

規模は「九間(けん)十間(けん)」

で「五重」であったことが分かって

います。

 

1681年頃の真田信利時代の沼田城

と現在地図の重ね図です。

(沼田郷土研究会より)

 

観光案内所にあった沼田城模型です。

 

真田氏はその後2代信吉(のぶよし)

、3代熊之助(くまのすけ)、4代

信政(のぶまさ)、5代信利(のぶ

とし)と沼田領を治めていましたが、

1681年11月に5代信利は江戸両国

橋用材の伐出し遅延と失政の名目で

城地は没収、改易となりました。

城は幕府に明け渡されました。

1682年に城はすべて破却されて堀

も埋められました。

 

真田氏改易後、旧真田領は天領とな

りましたが、元禄16年(1703年)

本多正永が幕府より沼田城復興を命

ぜられ2万石で入封しました。
しかし、城の本格的な復興はなされ

ず、城破却で埋められた堀の整備や

土塁の構築などが行われたのみで、

本多氏3代のあとは再び代官支配と

なります。

その後享保17年(1732年)には、

黒田直邦が3万石で入封し、2代続

きました。

1742年には土岐頼稔(ときよりとし)

が3万5千石で入封し、土岐氏は12代

頼知(よりおき)で明治維新を迎えて

います。

 

 

明治維新以後

 

沼田城は廃城となりました。真田氏の

改易以降は三の丸に藩邸が建造された

ものの、天守が再び建造されることは

ありませんでした。

 

大正5年(1916年)に旧沼田藩(土岐

家)士の子である久米民之助は、城地

の荒廃を惜しみ私財を投じて購入して

公園として整備します。この整備のた

めに、プール(テニスコート)やグラ

ウンドを造りましたが、その時二の丸

や三ノ丸の一部が破壊されて、窪んだ

平地にされました。

 

平地化されたテニスコートと

グラウンドです。現在は復元

をめざして、施設を移転させ

ました。手前のテニスコート

は初めはプールとして整備し

たそうです。

しかし、個人で所有するには

税金もかかるので、久米民之

助は大正15年(1926年)に

沼田町へ寄付しました。

 

沼田城古写真です。

本丸跡に鐘櫓が復元されていますが、

この鐘櫓の鐘は複製である。1634年

に真田信吉が鋳造させた「城鐘」そ

のものは現存し、群馬県指定重要

文化財に指定されています。

 

現在は沼田公園となっていま

す。

2017年に続日本100名城に

選定されました。

 

今回はここまでで、次回に続く

 

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