追記したので、再UPしています。
前回の続きです。
今回は西曲輪南側馬出から梅翁(ばいおう)
曲輪です。
下図イから西曲輪南虎口方向です。
現在は神社であるために、2本の
鳥居代わり(鳥居の原形とも言われ
ます)の石柱があります。
上が北です。
上図イの右側から撮影しました。
武田氏当時は木橋でした。
ハ付近に行くと
ハから西方向の馬出跡があります。
カメラを右に回すと
手前に解説板があります。
角馬出が確認されました。
ここは豊臣・徳川時代に整備
されたので、地下には武田時
代の三日月馬出があった可能
性があります。
この付近の発掘調査で、埋葬
された馬の、完全な骨が発見
されています。
馬の埋葬写真を拡大しました。
戦国時代の馬で大きさは、体高
125cmほどで、現代のポニ
ーほどしかありません。
戦国時代の大人の身長が155
cmほど(信玄は153cm)
なので、乗るときに高く感じた
でしょう。
馬出の端のロ付近に行くと
下図ロの南側
小屋の辺りは教育委員会の管理
地です。この付近が馬出跡の端
と考えられます。
梅翁曲輪は宅地化が進み、西と南の堀
と土塁の一部が復元されています。
武田氏時代は、ここが武田信玄の弟で
実弟の武田典厩信繁の屋敷があったと
されています。彼は最後の川中島の戦
いで、上杉勢に討ち取られました。
ちなみに、真田幸村(信繁)の名前は、
この武田典厩信繁から頂戴したと言わ
れます。
武田氏滅亡後
梅翁曲輪の名前の由来となった梅翁に
ついては、豊臣秀吉の家臣加藤光泰の
家老であった井上梅雲斎に由来すると
した説もあります。
梅翁曲輪は意林寺蔵の「 甲州古城勝頼
以前図」の添書に「平岩七之介築添曲
輪ハ・・」 とあり、武田氏の滅亡後、
豊臣家の後に甲斐国を領有 した、徳川
家康の重臣として城代を務めた、平岩
七之介親吉の時代に、松木堀や土塁が
造営されました。
Google地図の梅翁曲輪です。
梅翁曲輪内は住宅地になって
いますが、空き地も多いので、
長期的に住宅地を買収して、
完全に復元する予定のようで
す。
梅翁曲輪内は
梅翁曲輪の中は住宅地
と空き地です。
梅翁曲輪の中は住宅地
と空き地です。
梅翁曲輪の周囲は巡れなかった
のですが、グーグルストリート
ビューから、上図二からトへ歩
くと(上が北)
グーグルストリートビューより、
上図二から北方向の松木堀です。
虎口は見つかりませんでした。
虎口と木橋を復元して欲しい
ですね。
カメラを右に回すと
グーグルストリートビューより
下図二からホ方向です。
右端の民家は内藤昌豊屋敷跡です。
ホ付近に行くと
グーグルストリートビューより、
上図ホ付近からへ方向です。
梅翁曲輪の南虎口付近です。
虎口の復元はまだの状態で、
この先は住宅地で、松木堀
の復元はここまでです。
への角まで行くと
グーグルストリートビューより
ここが梅翁曲輪の南東角です。
トから南のへ方向です。
右端のお店が梅翁曲輪の
北東角です。
今回はここまでで、次回が最終回です。
5年前にUPした松江城追加しました。
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