前回の続きです。
今回は西曲輪に移動して、南虎口まで
歩きました。
西曲輪は信玄の子供:義信の館です。
義信の婚儀に合わせて新造されました。
下図系図より信玄公の長男が義信です。
独身のときは主郭の天守台(まだない
時)の付近で暮らしましたが、現代で
もそうですが、結婚したら独立した家
に住むことがほとんどですね。親子の
同居はほとんどありません。
武田家家系図です。
武田義信
1538年に武田晴信の嫡男として生まれます。
甲斐統一を果たした武田信虎の孫です。父の
晴信は天文5年に公家の三条公頼の娘(三条
夫人)を正室に迎えており、『甲陽軍鑑』
によればこれには武田氏と同盟関係にあっ
た駿河国の今川氏の斡旋があったそうです。
1550年に13歳で元服し、4月8日には駿河
の今川義元の娘を正室に迎えています。
1561年の、第4回川中島の戦いにおいても
出陣して、「越後野志」によれば、義信の
川中島での戦い振りは、永禄4年9月の会戦
の際に、武田軍を蹴散らした上杉謙信本陣
が一休みしていると、武田太郎義信が八百
の兵を率い、武田軍の旗を伏せ、腰差しを
して密かに葦の中を伝い、不意に謙信本陣
を襲撃し、不意をつかれた謙信の旗本は、
過半数が敗走し、この時老臣の志田源四郎
義時・大川駿河守高重が討死、謙信も家宝
の鍔鑓を用いて防戦する有様でした。
このとき色部修理亮長実が五百人、宇佐美
定満が千余人を率いて馳せ参じ、義信軍を
挟み撃ちにし、旗本隊と共に義信軍をよう
やく広瀬の渡しまで追い返しました。
奮戦したのに西曲輪住まいのままでした。
一方弟勝頼は高遠城主となりました。
今川義元が打ち取られてから、義信がいて
は今川家の領地を取れないという、信玄の
思いがあったようです。
1565年10月には信玄暗殺を企てた謀反に
かかわったとされ甲府東光寺に幽閉され
1567年10月19日には東光寺で死去しまし
た。享年30
同年11月に義信正室は駿河に帰国しました。
下図主郭⑲から西曲輪A方向です。
西曲輪周辺図です。(上が北)
主郭土塁からA方向です。
土橋の上Aに行くと
Aから北側の空堀です。
反対側の
下図Aから南側の堀です。
B付近から西曲輪内部です。
B付近からC方向です。
南虎口が見えています。
南虎口です。
石垣は豊臣時代に整備
されたようです。枡形
になっています。
C地点右側の石垣です。
豊臣時代の造成なので
栗石が詰められていま
す。
D付近からE方向です。
ここで振り返ると
枡形内部です。
DからC方向です。
石橋の上から主郭方向です。
石橋を渡り振り返ると
下図EからD方向です。
戦国時代は石橋ではなく、
木橋だったでしょう。
今回はここまでで、次回につづく
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