多賀城(日本100名城) 6  政庁南門を入り東殿・西殿跡 | みどりの木のブログ

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前回の続きです。

今回は政庁南門を入り東殿跡です。


下図Aから見たところです。

 

第二期762年からの多賀城政庁です。

 

南側から見た東殿跡です。

政庁東門の位置に造られた、

築地塀を飾った建物でした。

 

北側から南方向の東殿跡です。

 

 

 

 

 

北側から見た東脇殿跡です。

 

 

北側から見た東脇殿跡です。

 

東殿跡の発掘調査写真です。

 

政庁は左右対称形です。

次に西側は

 

政庁の西側です。

 

 

 

西脇殿跡です。

 

周辺には民家が点在しています。

 

 

780年に伊治公呰麻呂は反乱を

起こしました。

反乱の理由として『続日本紀』

では、呰麻呂の個人的な怨恨を

理由に挙げています。

蝦夷の出身である呰麻呂は、大

和朝廷の家臣として仕えていま

した。陸奥按察使(あぜち)の

上司紀広純を嫌っていましたが、

恨みを隠して媚び仕えていたた

めに、紀広純の方では意に介さ

ずに信頼を置いていました。

これに対し道嶋大楯(呰麻呂と

同じく郡の大領)は常日頃より

呰麻呂を夷俘として侮辱してい

たために、呰麻呂がこれを深く

恨んでいたとしています。

道嶋氏はもともと坂東からの移

民系の豪族であり、蝦夷ではな

なかったし、また、道嶋氏から

は中央貴族となった、近衛中将

道嶋嶋足も輩出していました。

それが道嶋大楯の呰麻呂を侮辱

してきた理由でした。大和朝廷

に協力して、功績を認められ地

位を上げてきた呰麻呂にとって

耐えがたい屈辱だったのでしょ

う。道嶋大楯や紀広純は殺され

多賀城も炎上しました。

 

今回はここまでで、次回に続く

 

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