今回から九戸城(続日本100名城)の
紹介です。今回はその歴史です。
2022年4月27日に訪問しました。
前回の盛岡城と関連した南部氏の城です。
下図ガイドハウス付近
から見た本丸方向です。
先に見える崖の上が本丸
です。
写る方はガイドさんです。
現在地にある現地案内板です。
ガイドハウスにはボランティア
ガイドさんが、4月中頃から
11月末まで、土日祝は常駐
しています。平日は電話予約
出来ます。
☎0195-23-3641二戸市観光
協会です。
現地解説板より
下図にあるように九戸城は
二戸市にあります。
九戸氏は初めは九戸村に
居住していましたが。
勢力が拡大して、二戸に
拠点を移し、九戸氏7代
目の九戸光政により明応
年間(1492~1501年)
に築城されました。
二戸にあるのですが、こ
んな理由で九戸城といわ
れます。
ガイドハウスにあった資料から
南部氏系図です。
三戸城主の南部24代晴政は、
晩年まで嫡男が無く、南部一族
の石川信直を後継者に指名して、
長女の婿養子としました。
しかし、男子(25代晴継)誕
生後は信直を嫌い世継ぎを撤回
します。晴政と信直は対立して、
天正8(1582年)年1月に、
三戸城主南部24代晴政が死去
します。晴政の死後、晴継が跡
を継ぎますが、同年同月24日
に、晴継も13才で謎の死を遂
げます。
南部家は跡目を巡り、信直支持
派と九戸一派(リーダーが九戸
政実)が対立します。
対立の中で信直が南部26代目
を継ぎます。
森嘉兵衛氏の著書より引用
南部信直肖像画です。
持っている首が九戸政実らしいです。
九戸政実は信直より10歳年上です。
1582年6月本能寺の変が
あり、織田信長が死去しまし
た。
1590年に秀吉の小田原城
攻めがあり、南部信直は参陣
して、信直は「南部内七郡」
安堵の朱印状を受けます。
しかし、家臣と思っていない
九戸派の領地まで信直のもの
になります。
秀吉の朱印状写しです。
(もりおか歴史文化館より)
1590年秀吉は小田原城
攻略後、奥州仕置を開始。
小田原不参陣の諸氏を排除
しますが仕置軍が去ると、
残党が蜂起し、奥州地域は
不穏な状況になります。
1591年に九戸政実は、
三戸城での正月賀宴に参加
しませんでした。
3月に信直と政実の争いは
激化して、劣勢になった、
信直は秀吉に援軍を要請し
ます。
7月に秀吉は奥州再仕置を
発令します。
9月1日には奥州再仕置軍
が馬淵川流域に到着します。
6万5千騎を敵に九戸城の
籠城軍は5千人でした。
九戸城包囲網図です。
攻め手の大将は蒲生氏郷です。
蒲生氏郷肖像画です。
1591年9月4日に政実の武勲を
称え、九戸氏菩提寺鳳朝山長興寺の
薩天和尚を使者にたてて、受諾なら
婦子女や下級武士の助命を条件に和
議を勧告、政実はこれを受け開門し、
九戸政実はじめ七戸家国・櫛引清長
・久慈直治・円子光種・大里親基・
大湯昌次、一戸実富ら9人が揃って
白装束姿に身を変えて、再仕置軍に
一揆の責任者として降伏しました。
これは謀略で、上中級武士やその子
女が悉く撫で斬りにされ、九戸城は
あえなく落城します。政実らは宮城
県三迫で処刑され、九戸神社と首洗
いの池が残っています。
これにより、秀吉の国内統一は完了
し、名実ともに配下の大名となった、
信直には和賀・稗貫・志和の三郡を
加封しました。(下図)
秀吉は蒲生氏郷に命じ、九戸城を
豊臣流の石垣を使う城に改修しま
した。(本丸のみか?)
本丸虎口枡形跡の石垣です。
カメラを左に回すと
右側が本丸の野すら積石垣です。
蒲生氏郷により石垣が造られま
した。
現地二の丸にある模型です。
南部信直はこの城を福岡城と改め
南部の本拠地としました。その子
利直が盛岡城に本拠を移し、福岡
城には城代を置きます。
その後1636年に廃城となりま
した。
廃城後も地元の人々は、福岡城と
言わずに九戸城と言いました。
平成29年に日本続100名城に
認定されました。
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