宇陀松山城(続100名城) 16 織田信雄 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は1615年に福島高晴が大坂方との

内通を疑われて改易になった後で、宇陀

に入封した織田信雄についてです。

 

織田信雄(1558~1630年)

肖像画です。

 

父の織田信長肖像画です。

2人の顔が似ているのです

が、信長の方がきつい性格

で、信雄の方がやさしい感

じがします。

下の家系図にあるように、

信雄は信長の次男でした。

織田本家を継いだ信忠に

子供があったので、本能

寺の変で1582年に信長

と信忠が、明智光秀に殺

害されたあと、織田本家

を継げませんでした。

 

織田家家系図です。

 

織田信雄は

1558年に尾張国丹羽郡小折(現在の

愛知県江南市)の生駒屋敷で、織田

信長の次男として生まれました。幼名

は茶筅丸です。『勢州軍記』によると

生母は生駒家宗の娘:吉乃です。

吉乃の肖像画が無いので、信雄の

肖像画をもとに吉乃の肖像画を作り

ました。

 

吉乃の肖像画です。(鬼武者ゲームより)

顔部分は信雄の顔をもとに、みどりの木

が合成制作しました。

 

1569年に父:信長の北畠家攻略戦

での和睦条件として、北畠具房の養

嗣子となって、北畠具房の妹の雪姫

(北畠具教の娘)を娶ります。

1572年)に元服して北畠具豊と称

します。

北畠の家督を相続後は信意に改名

します。

1576年に滝川雄利・長野左京亮・

軽野左京進に命じて多気郡の三瀬

御所を攻撃させ、北畠具教と具教の

息子2人と北畠家臣14人を殺害し

ました。同日、信意自身も田丸城に

長野具藤ら北畠一族を饗応と偽っ

て呼び出し謀殺します。

1579年に信意は信長に無断で、

自身で8000人、柘植保重に1500

人の兵を率いさせ、伊賀国に3方か

ら入り伊賀惣国一揆を攻めますが、

伊賀十二人衆と呼ばれる自治集団

に大敗し、殿軍の柘植保重は植田

光次に討ち取られます。このため

信長からは「親子の縁を切る」と

の書状をもらいます。

1581年に信長の命令で、大和・

近江・伊勢の軍勢に信意も加わり、

再度伊賀へ侵攻し、伊賀を平定し

ました。

1582年に本能寺の変で信長と

信忠が死去します。本能寺の変に

際して、信意は近江国甲賀郡土山

まで進軍しますが、兵数が少なく

明智軍と戦わないまま撤退しまし

た。

清洲会議で信意は兄:信忠亡き

後の織田家の後継者になろうと

するものの、結局、織田家当主

は三法師、後見役は信意と信孝

となります。信長の遺領配分で、

信意(信雄)は尾張・伊賀・南伊

勢の約100万石を相続します。

そのとき織田姓に復して信雄と

改名します。

1583年に賤ヶ岳の戦いが起こり

ます。信雄は秀吉方に属しており、

5月には弟:信孝を岐阜城に攻め

て降伏させます。信孝は尾張に

送られる途中で切腹させられま

した。

 

織田信孝の墓地です。

 

信孝が死んで、後見役が信雄

だけとなりました。

信雄は三法師の後見として安土

城へ入城します。しかし、すぐに

秀吉に退去させられます、信雄

と秀吉の関係は険悪化します。

1584年の正月に近江国坂本

の三井寺で秀吉と会見しますが

決裂し、信雄は家康に接近して

同盟関係を結びます。

1584年に小牧・長久手の戦い

が起こります。また、長宗我部

元親・佐々成政・雑賀衆とも

連合して羽柴家と戦います。

織田家を継ぐのは信雄だとい

う思いが強いです。

家康に無断で単独講和を結

びます。講和の後で秀吉は、

信雄を正式な織田家の当主

(三法師の名代ではなく)に

据えると約束したようです。

しかし、現実には織田家は

秀吉に臣従します。

1587年の九州征伐では、

出陣する秀吉を勅使らとと

もに見送り。九州征伐後は

内大臣に任官します。

1590年の小田原征伐に

従軍し、武功をあげます。

しかし、戦後の論功行賞で、

家康旧領(駿遠三甲信5ヵ

国)への移封命令を、父祖

の地の尾張からの移動を

嫌がり拒否したことから、

秀吉の怒りを買って改易

されます。改易後は下野

国鳥山へ流罪となります。

その後、出羽国秋田の

八郎潟湖畔、次いで伊予

国へと流されて、1592年

の文禄の役の際に家康の

仲介で赦免され、御伽衆

に加えられて大和国内に

1万8000石を領します。

その後、肥前名護屋城に

も兵1500人で着陣します。

1600年の関が原の戦い

では、西軍に与したと判断

されたため、嫡男の織田

秀雄ともども改易されます。

戦後は豊臣家に出仕しま

す。

1614年の大坂冬の陣の

直前に徳川方へ転身しま

す。

1615年7月に家康から大和国宇陀郡と

上野国甘楽郡など約5万石を与えられる。

 

信雄死後の1685年頃の絵図です。

①が織田信雄の陣屋です。

陣屋の北側に家臣屋敷が

ありました。宇陀川の対岸は

利用していません。

 

信雄時代の陣屋があった長山屋敷跡

 

四男の信良に上野国小幡藩2万石を分

知して、自らは京都で隠居し、茶や鷹狩

りなど趣味の生活を送ります。

1630年4月に京都北野邸で死去します。

享年73。

実質的な隠居料であった大和宇陀郡の

約3万石の領地は、五男:高長が相続し

ます。高長の宇陀郡の相続については、

小幡織田家側から、うちの領地ではとの

異論が出されますが、徳川幕府は認め

ませんでした。

 

信雄の五男:織田高長の肖像画です。

 

今回はここまでで、明日に続く

 

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