多聞山城 番外 転害門(国宝)  | みどりの木のブログ

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今回は国宝の転害門です。

多聞山城関連なので番外としま

した。

下図⑳から一条通り(平城京の

南一条大路)を東に歩き、東大

寺西門である転害門まで行き

ます。

 

グーグル地図です。

地図右下に東大寺西門と

書いたのが転害門です。

⑳の左側(西側)の橋が

法蓮橋です。

 

上図の佐保川天満宮から東方向

です。この道の行き止まりが転害

門(東大寺西門)です。

この通りが下図の一条通り(平城

京の一条南大路)です。

 

平城京地図です。

 

突き当りに転害門が見えてきました。

 

さらに進むと

 

正面が転害門です。

門の前を左右に通る道が、

奈良坂越京街道です。

古代から奈良と京都を結ぶ

主要な街道で、多聞山城

にはこの道を監視する狙い

もありました。

下図では奈良街道と書か

れています。

 

多聞城の四階櫓から転害門

附近がよく見えたと思います。

鍛冶場のある包永町が近場

で、武器の調達もやり易かっ

たでしょう。また、下写真の

ような白漆喰に瓦屋根の建

築技術を利用して、多聞山

城で多聞櫓や四階高櫓(天

守)が造られたのでしょう。

信長もうらやましがった、当

時の先進的な多聞山城を、

復元して欲しいと思います。

 

国宝の転害門表側です。

天平時代からここにあり、

多聞山城の16年間の、

消長を見てきた門です。

造営時期は不明ですが、

東大寺の寺域を描いた

「東大寺山界四至図」の

756年には「佐保路門」

と描かれています。

 

東大寺山界四至図の模写図です。

 

門前の道が平城宮と一

直線でつながっている

ことから、天皇が参拝す

ることもあったでしょう。
東大寺の正門としての、

南大門は前述の四至図

には描かれていません。

尾根筋に当たっていて

平地でなかったことも

あり、建設は転害門よ

りも後年だったようです。

 

転害門の解説板です。

東大寺伽藍では唯一の

天平時代の遺構です。

 

謡曲「大仏供養」と転害門の話

謡曲(ようきょく)とは、能の声楽部分

(詞章)です。 演劇で言えば脚本に

相当します。本来、「謡」と言われて

いたのが、大正・昭和初期からは、

「謡曲」と称するようになりました。

平家の南都焼討の後、東大寺は

源頼朝の協力のもとで再興されて

います。

 

門の左側には石仏が安置

されています。

 

転害門の裏側に回ると

 

転害門の横側です。

 

裏側から見た転害門です。

 

 

基壇の中央部です。

手向山八幡宮の神輿安置の

ための4つの石が見えます。

 

この反対側は

 

東大寺境内になります。

 

今回はここまでで、明日は

奈良奉行所跡です。

 

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