多聞山城 8 最終回 佐保川天満宮と多聞山城の廃城 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

昨日の続きです。

今回が最終回で佐保川天満宮

と多聞山城の廃城です。

 

下図⑲から法蓮橋方向です。

法蓮橋に戻った所です。

この法蓮橋は昭和6年に尾田

組により竣工しましたが、江戸

時代もここに橋があり、千石橋

と呼ばれていました、多聞町の

与力・同心へ年間千石の米が

運ばれたので、そう呼ばれた

と言います。

 

⑳の所に行くと

 

⑳から西方向です。

この東西の道は平城京の南一条

大路にあたる道で、現在は一条通

りと言われています。

先の方に見える提灯の所に行くと

 

佐保川天満宮です。

下図赤枠で囲んだ所です。

 

西包永(かねなが)町内会の案内板です。

鎌倉時代から室町時代にかけて活躍した

手掻(てがい)派の刀工の始祖とされる、

包永が鍛冶場としたので、包永(かねな

が)町の名前がつきました。その作風は、

鎌倉中期に見るような、反りがある厚い

刃が特徴で、南都僧兵からの注文が多

かったようで、国宝にもなっています。

 

太刀銘包永(国宝)

 

転害門近くに住んでいた鍛冶匠の四郎

左衛門包永は、般若寺の文殊菩薩を

信仰していました。1300年のある夜、

包永が夢に聞いた文殊のお告げの通り

に刀を鍛えていると、文殊菩薩が化身し

て一人の童子となって、槌を打つのを

手伝いました。そのおかげで名刀包永

ができあがり、般若寺に奉納しました。

そのときに般若寺から文殊四郎の名

を与えられたということです。

 

中に入ると

 

右は町内会の集会所です。

 

本殿です。

 

奈良時代から多聞山(眉間山)に

祀られていた雷神(天神)を、松永

久秀が多聞山城築城のときに、

この地に移しました。

江戸時代は「草天神」「茱萸天神」

などと言われ広く信仰されました。

菅原道真の木造を安置した、本殿

は、江戸時代の建築です。

明治維新後に眉間寺は寺領を失い

廃寺になりましたが、佐保川天満宮

は地元町衆の信仰により、小さいで

すが存続しました。

 

1576年に大和の守護に筒井順慶

が任命されます。織田信長は郡山

城以外の、多聞山城を含む城の破

却を命じ、順慶は同年7月から京都

所司代の村井貞勝の監督のもと、

破城工事が始まり、1577年6月

頃には建物は破壊され、多聞山城

があった期間はわずか16年間で

した。

 

信長から信用された筒井順慶肖像画です。

 

建物はまだ新築同然なので、移

築されるところが多かったようで、

建材は村井貞勝が差配して京都

に運ばれ旧二条城に活用しました。

(旧二条城は本能寺の変で焼失)

筒井順慶も石垣や門を、筒井城

に移しています。

多聞山城を信長に奪われ、大和

守護職も筒井順慶が就任したので、

1577年8月に再び信長に謀反

をおこした松永久秀は、信貴山城

の戦いで籠城の末に自害しまし

た。

 

 

今回はここまでで、明日からは

奈良市立資料保存館の方に行きます。

 

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