昨日の続きです。
今回は本丸から毘沙門堂までです。
下図本丸の右端から⑥方向です。
現在地にある案内板です。
本丸とその下の帯曲輪を
あわせて、実城(ピンクの
線で囲む部分)と呼んで
います。
上図①から②の方向です。
上図②付近です。
右に行くと二の丸になります。
二ノ丸は後で行きます。
先に実城から見ます。
本丸下の帯曲輪の③付近です。
下に銀杏の木がある所が二の丸
です。大きな木が伐採されている
ので助かります。
明治維新後に復元された、
毘沙門堂は⑦にありますが、
謙信の時代は⑥の曲輪に
あったそうです。
下に見える二の丸です。
2021年11月7日撮影です。
銀杏の紅葉には早かったの
が残念です。
24日の写真をお借りしました。
上越日報さんの記事にある写真です。
11月24日のものです。
本丸の上空から撮影したようです。
さらに進むと
下図④付近から赤×印の道です。
環境・遺跡保護のために通行止め
です。
現在地にある案内板です。
上杉家が豊臣秀吉から会津へ
領地替えさせられ、関ヶ原の
戦いの後は、徳川家康により
米沢に領地替えされたので、
毘沙門天像も米沢に移動し
ています。
米沢城を修築して、謙信を祀
る霊廟を、本丸東南高台に
建立しました。そこに毘沙門
天も合わせて祀りました。
明治維新以後の毘沙門天
像は、廟所脇の法音寺に移
されました。
火災などで痛みの激しかっ
た毘沙門天像を、昭和にな
って高村光雲が修復します。
この時、分身仏を作成して、
修復の際に欠け損じた一部
を胎内に入れたといいます。
この分身仏は現在寄贈され、
春日山城跡に毘沙門堂を
再建して本尊となっています。
上図⑤付近から⑥方向です。
赤い矢印の先端に護摩堂の
石碑があります。
カメラを左に回すと
本丸が見えます。
手前の禿げたところには、以前
休憩所がありましたが、取り壊
されています。
⑥の曲輪の上にあがると
⑥の上にあがり、本丸方向を撮影
しました。
護摩堂跡の石碑があります。
護摩堂は⑥より低い所にあった
のです。一段低い所から⑥の高
い所にある、毘沙門堂に向かい
重臣も集められて、護摩を焚い
て戦勝祈願をしたのでしょう。
この反対側は
⑥の上にあがった所です。
手前に諏訪堂跡の石碑が
あり、奥に毘沙門堂跡の
石碑があります。
謙信は毘沙門天以外に
諏訪信仰もしていたので
しょう。神仏混交の時代
なので、神仏の両方を
信仰していたのですね。
⑥にある毘沙門堂跡の石碑です。
護摩堂の解説板です。
謙信は越後国内の争いが
収まらないので、いやけが
さして、1556年に謙信は
突然出家し隠居することを
宣言し、同年6月には天室
光育に遺書を託して、春日
山城から高野山に向かい
ます。しかしその間、信玄
に内通した家臣大熊朝秀
が謀反を起こします。
天室光育や長尾政景らの
説得で出家を断念し、謙信
は越後国へ帰国して謀反
を平定しています。
この時はまだ謙信では
なく景虎でした。
⑤から⑦に行きます。
⑤から⑦の途中の道です。
⑦に復元された毘沙門堂が見えます。
復元された毘沙門堂です。
中を覗いてみると
高村光雲が造ったレプリカです。
体内に本物の破片が収蔵され
ています。
毘沙門堂の解説板です。
毘沙門天は四天王の内の
多聞天なのですが、多聞天
のみを祀る場合は、多聞天
を毘沙門天と言いました。
今回はここまでで、明日に続く
読者募集中ですので、読者登録はここのリンクです。
希望があれば、読者(フォロアー)相互登録出来ます。
毎日午後8時半~9時頃に更新しています。
登録では「相手わかるように」に設定して読者登録してください。
読者様のブログは拝見に行き、「いいね」やブログ村・ブログラン
キングは出来るだけ押しに行きます。
Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。
お手数ですが、よろしく。ぽちっと押すだけ