昨日の続きです。
今回は柿崎屋敷から景勝屋敷です。
下図⑭から⑮方向です。
⑮付近にあった案内板です。
上図⑮付近です。
赤い線に沿って歩きました。
上写真にある案内板です。
近衛前嗣は戦国の京都を逃れて、
越後府中(直江津)に3年間滞在
して、その間に春日山城にも来て
いました。
近衛前嗣が通った道ということで
御成街道と言われます。
近衛前嗣肖像画です。
顔の汚れを落としています。
近衛前嗣は麒麟がくるでも、
改名後の近衛前久で出て
いました。丹波にも逗留し
ています。過去の私のブ
ログでも黒井城で紹介しま
した。
初めは足利義輝の従兄な
ので、室町幕府12代将軍
足利義晴から偏諱を受け、
晴嗣(はるつぐ)を名乗り
ますが、義輝が暗殺され
てからは前嗣と名乗りま
した。藤原氏長者でもある
彼は、上杉氏が藤原氏の
出身であることもあり、京
都で謙信と知り合います。
1560年に前嗣は関白の
職にありながら、景虎を頼
り越後に下向します。
1561年の初夏に前嗣は
景虎の関東平定を助ける
ために上野・下総に赴く
など、景虎が越後に帰国
した際も危険を覚悟の上
で古河城に残り、情勢を
逐一越後に伝えました。
謙信が信濃へ出兵して、
武田信玄と第四次川中島
の戦いで、謙信の活躍は
古河城の前嗣にも伝えら
れ、前嗣は謙信に宛てて
戦勝を賀す書状を送って
います。この頃に彼は名
前を前嗣(さきつぐ)から、
前久(さきひさ)に変えま
した。しかし、武田・北条
両氏との戦いで、謙信の
関東平定が不成功に終
わると、越後に戻ってい
た前久は、とどめる謙信
を振り切って、京都に帰
りました。
下図⑮から⑯方向です。
この坂を上がると
坂を上がった所です。
赤線のように進んで、
左側の郭に上がると景勝屋敷跡です。
左側の郭に上がる所です。
この上が上杉景勝屋敷です。
上杉景勝屋敷跡です。
解説板です。
上杉景勝は、1555年に越後国
魚沼郡上田庄(現・新潟県南魚
沼市)の坂戸城下に上田長尾家
当主の、長尾政景の次男として
生まれます。長男が亡くなり、彼
が上田長尾家当主になりました。
上杉景勝の母が上杉謙信の姉
である縁から、謙信養子となり、
春日山城のこの屋敷に移りまし
た。そして、謙信の跡継ぎ候補
となりました。
1578年に謙信が死去すると、
後北条氏から人質として出され、
謙信が養子とした、上杉景虎と
の相続争い、御館の乱が起こり
ました。春日山城本丸と金蔵を
占拠した景勝側は、北条の依頼
で来た、武田勝頼に領土割譲と
黄金献上で味方につけて、不利
な戦況を有利にします。
北条家は主力軍を佐竹氏との
争いで動かせずにいました。
ここで佐竹に譲歩して、領土を
与えて和睦していたら、景勝の
救援に主力軍を越後に出動で
きたのですが、和睦が出来ず
に、冬まで争うことになります。
なので雪のために、越後に軍
を進められずにいました。
結局、御舘の乱は景勝側の
負けになりました。
上杉景勝肖像画(米沢博物館所有)
景勝の実父母の長尾政景と仙洞院です。
米沢神社にある景勝肖像画です。
奥に進むと
風化で読み取り難い石碑があります。
景勝屋敷から見た風景です。
景勝屋敷入口方向です。
ここから本丸は近いので、
御舘の乱で、本丸と金蔵
を先に制圧出来たのが、
ラッキーでした。
今回はここまでで、明日に続きます。
読者募集中ですので、読者登録はここのリンクです。
希望があれば、読者(フォロアー)相互登録出来ます。
毎日午後8時半~9時頃に更新しています。
登録では「相手わかるように」に設定して読者登録してください。
読者様のブログは拝見に行き、「いいね」やブログ村・ブログラン
キングは出来るだけ押しに行きます。
Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。
お手数ですが、よろしく。ぽちっと押すだけ