水戸城(日本100名城) 8 徳川光圀(水戸黄門)生誕地 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

昨日の続きです。

今回は徳川光圀(水戸黄門)生誕地です。

 

下図⑲にある水戸黄門の銅像です。

ここを右に曲がると、徳川光圀

(黄門様)の生誕地です。

水戸光圀は義公と言われます。

何故か三階櫓の模型もあります。

生誕地から二の丸の三階櫓が

見えたからでしょうか。

 

 

 

銅像の台座に書かれた解説板です。

 

拡大した銅像です。

 

徳川光圀の肖像画です。

 

こちらも徳川光圀肖像画です。

年をとってからなのか、

表情が穏やかですね。

 

徳川光圀(義公)(1628~1700年)

水戸藩28万石の2代藩主です。

光圀の「光」の字は3代将軍家光

の光をもらいました。

 

父の頼房は将軍家の末子。兄た
ちにまだ、嫡男がいなかったこと
から跡継ぎ争いに巻き込まれない
ように、側室には子を「水にせよ」
つまり、堕胎を命じていました。
それを不憫に思った家臣が匿い、
光圀を育てることになります。
そんなこともあり青年期は非行
にはしり、『玄桐筆記』によれば、
光圀が若い頃、知り合いの武士
と出かけて帰りが遅くなった。
歩き疲れて浅草あたりの仏堂
で一休みしていると、連れの
武士が「この堂の床下に非人
どもが寝ているようだ。引っ張
り出して、刀の試し斬りをしよう」
と言いました。光圀が「つまら
ないことを言うものではない。
罪のない者を斬ることなどで
きない。それに、非人の中に
も手強い者がいるかもしれな
い。どのような反撃を受ける
か分からない。無用なことだ」
と言うと、その武士は光圀を
「臆病風に吹かれたのか」と
罵倒した。やむなく光圀は床
下に潜り込み、非人を捕まえ
て引きずり出そうとした。非人
は「自分も命が惜しいのです。
無慈悲なことはやめてくださ
い」と哀願しました。光圀は
「自分も無慈悲な振る舞い
だとは思うが、仕方がない。
前世の因縁だと思って諦
めてくれ」と言い、非人を
引き出して斬り捨てました。
光圀は連れの武士に「さて
さて、むごいことをしてしま
いました。あなたが、そん
な人間とは知らずにこれま
で付き合っていたことが悔
やまれます。今後は、もう、
お目にかかることもない
でしょう」と言い、その日
を境に絶交しました。
悪い人を友達にしてはいけない
という正常な心があったようで
す。その後儒教の本を読んで
善人になったといいます。

 

1661年に31歳で水戸藩主と

なります。

就任直後の1662年に町奉行

の望月恒隆に水道設置を命じ

ます。父の頼房時代に造営さ

れた水戸城下町はもともと湿

地帯であったため井戸水が濁

り、住民は飲料水で苦労して

いました。望月は笠原不動谷

の湧水を水源と定め、笠原か

ら細谷まで全長約10kmを

埋設した岩樋でつなぐ笠原

水道を着工。実際の敷設は、

永田勘衛門とその息子が

担当しました。約1年半で完

成します。

1663年に神社を重んじた、

光圀は領内の寺社改革に

乗り出し、1665年に寺社

奉行2人を任じ、翌年寺社

の破却・移転などを断行し

ます。開基帳には2377寺

が記されていますが、処分

されたのは1098寺で46

%で、うち破却は713寺

でした。主な理由は不行

跡でした。神社について

は、社僧を別院に住まわ

せるなど神仏分離を徹底

させました。明治新政府と

同じようなことをしてます。

藩士の墓地として特定の

寺院宗派に属さない共同

墓地を、水戸上町・下町

それぞれに設けました。

由緒正しい寺院、長勝寺

(潮来市)や願入寺(大洗

町)などについては支援・

保護しました。

元禄の初めに1688年

頃には、建造した巨船

快風丸を使い、三度に

渡る蝦夷地探検を命じ

ました。二度目までは

松前までの航海ですが、

元禄元年(1688年)出

航の3度目は松前から

北上して石狩まで到達

します。米・麹・酒などと

引き換えに、塩鮭一万

本、熊皮、ラッコやトド

の皮などを積んで水戸

に帰りました。巨船で

の航海は、光圀が藩主

であったから、幕府も

黙認して実現したよう

で、これ以降行われず、

光圀の死から3年目に

快風丸も解体されます。

 

1690年に幕府より隠居

の許可がおります。

藩主を譲り西山荘(常陸

太田市)に隠居します。

 

西山荘(グーグルより)

再建されたものです。

 

1692年に那須国造の

墓を推定して発掘調査

を行いました。

出土品は絵師に描き取

らせたのち、厚い松板

の箱に入れて元のよう

に古墳内におさめました。

日本初の学術的着想に

よる発掘といわれます。

同年に佐々を楠木正成

が自刃したとされる、

摂津国湊川に派遣し、

楠木正成を讃える墓

を建造させました。

墓石には、光圀の筆

をもとに「嗚呼忠臣

楠氏之墓」と刻まれ

ました。正成の首塚は

大阪の観心寺にありま

す。

1694年に5代将軍の

徳川綱吉の命により、

隠居後初めて江戸に

のぼり、水戸藩小石川

藩邸に宿泊します。

11月23日に小石川藩

邸内で幕府の老中や

諸大名、旗本を招いて

行われた能舞興行で、

重臣の藤井紋太夫を

刺殺します。光圀が

自ら能装束で「千手」

を舞ったのち、楽屋

に紋太夫を呼び問答

の後突然刺しました。

幕府に出された届出

によると、紋太夫が

光圀の引退後は高慢

な態度を見せるように

なり、咄嗟の殺害で

はなく、以前からの

処罰が念頭にあり、

当日の問答によって

は決行もありうると

考えていたそうです。

理由の詳細は不明

です。年を取ってからも

過激なところがありまし

た。

1700年に73歳で死去

しました。食道癌が原因

だそうです。

 

銅像から右に曲がった所です。

義公生誕地の神社が見えます。

背後の崖の上には二の丸の塀

が見えます。

崖の下は堀でしたが、現在は

埋め立てられました。

また神社の後ろは国道になっ

ています。

 

 

 

義公生誕の地の

水戸黄門神社です。

 

 

 

ここにある解説板です。

 

光圀誕生のときに母はここ

に一粒の梅の実をまきまし

た。

光圀が藩主で40歳の春、

1667年に、ここで賞花

の宴を催しました。

その時の光圀の歌が、

「朽残る 老木の梅も

この宿の 春にふたたび

あそぶぞ嬉しき 」です。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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