二本松城(日本100名城) 12 日影の井戸から重臣切腹跡 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は日影の井戸から重臣切腹跡

 

下図①の日影の井戸です。

 

現在地にある案内板です。

桜の花びらが2枚張り付いています。

 

①から新城館への道です。

 

①から松森館と硝煙蔵方向へ

の道です。

 

 

 

蒲生家時代には新城館と松森館

の2か所に城代が置かれて、

東城・西城と言われました。

その2つを結ぶ城内路には

虎口状の遺構があります。

 

現在地にある案内板です。

江戸時代中期の古絵図と

比較すると

 

江戸時代中期の二本松城です。

 

松森館への道ですが江戸時代

には無かった道です。

 

次に硝煙蔵と松森館は

グーグルストリートビューからの

写真です。

 

下図④の煙硝蔵跡です。

 

 

 

発掘調査時の硝煙蔵跡です。

(もらったパンフレットより)

 

上図③付近から見た松森館(東城)

跡です。

蒲生氏郷の子供:秀行が会津若松

城主(1601年)となったときに、

その支城となった二本松城の、

この松森館(東城)には家臣の梅原

弥左衛門が城代として入りました。

新城館(西城)には門屋助右衛門

が城代として入りました。

 

さらに下りた②へ行くと

 

②に降りて、振り返り①方向の

石段を見たところです。

この道が三の丸から本丸への

大手道になります。

 

上図②の藩士自刃の地です。

左端に供養石碑があります。

本丸にもありましたが、自刃

したのはここです。

 

解説板です。

本丸にあった供養石碑の2人

以外にも、郡代だった丹羽新

十郎も責任を取り自刃してい

ます。

官軍は約7千人もいたのに、

二本松藩は応援に来た兵も

入れて千人ほどでした。

武器も旧式なので戦死者は

半分にものぼりました。

下図②付近の武家屋敷での

自刃でした。

 

 

江戸時代中期の二本松城です。

 

 

関が原で西軍として戦い敗れて

改易になった丹羽家ですが、

丹羽長秀の子供:長重は織田

信長の五女を正室にしていた

ので、徳川秀忠の正室:お江

と長重の正室はいとこ関係に

なります。そのほかに大坂の

陣では武功を上げました。

1617年に江戸幕府2代将軍

徳川秀忠の御伽衆となります。

負けても負けぬ丹羽家は二本

松10万700石まで出世します。

長重は家臣に「将軍の恩を第

一として、幕僚と円滑に付き

合い、徳川幕府への忠勤に

励め」と遺言しています。

 

丹羽長重の晩年の肖像画です。

父の長秀と同様に温厚な性格

だったそうです。

石垣造りを得意としました。

負けても負けぬ丹羽家でした。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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