昨日の続きです。
今回は日影の井戸から重臣切腹跡
下図①の日影の井戸です。
現在地にある案内板です。
桜の花びらが2枚張り付いています。
①から新城館への道です。
①から松森館と硝煙蔵方向へ
の道です。
蒲生家時代には新城館と松森館
の2か所に城代が置かれて、
東城・西城と言われました。
その2つを結ぶ城内路には
虎口状の遺構があります。
現在地にある案内板です。
江戸時代中期の古絵図と
比較すると
江戸時代中期の二本松城です。
松森館への道ですが江戸時代
には無かった道です。
次に硝煙蔵と松森館は
グーグルストリートビューからの
写真です。
下図④の煙硝蔵跡です。
発掘調査時の硝煙蔵跡です。
(もらったパンフレットより)
上図③付近から見た松森館(東城)
跡です。
蒲生氏郷の子供:秀行が会津若松
城主(1601年)となったときに、
その支城となった二本松城の、
この松森館(東城)には家臣の梅原
弥左衛門が城代として入りました。
新城館(西城)には門屋助右衛門
が城代として入りました。
さらに下りた②へ行くと
②に降りて、振り返り①方向の
石段を見たところです。
この道が三の丸から本丸への
大手道になります。
上図②の藩士自刃の地です。
左端に供養石碑があります。
本丸にもありましたが、自刃
したのはここです。
解説板です。
本丸にあった供養石碑の2人
以外にも、郡代だった丹羽新
十郎も責任を取り自刃してい
ます。
官軍は約7千人もいたのに、
二本松藩は応援に来た兵も
入れて千人ほどでした。
武器も旧式なので戦死者は
半分にものぼりました。
下図②付近の武家屋敷での
自刃でした。
江戸時代中期の二本松城です。
関が原で西軍として戦い敗れて
改易になった丹羽家ですが、
丹羽長秀の子供:長重は織田
信長の五女を正室にしていた
ので、徳川秀忠の正室:お江
と長重の正室はいとこ関係に
なります。そのほかに大坂の
陣では武功を上げました。
1617年に江戸幕府2代将軍
徳川秀忠の御伽衆となります。
負けても負けぬ丹羽家は二本
松10万700石まで出世します。
長重は家臣に「将軍の恩を第
一として、幕僚と円滑に付き
合い、徳川幕府への忠勤に
励め」と遺言しています。
丹羽長重の晩年の肖像画です。
父の長秀と同様に温厚な性格
だったそうです。
石垣造りを得意としました。
負けても負けぬ丹羽家でした。
今回はここまでで、明日に続きます。
読者募集中ですので、読者登録はここのリンクです。
希望があれば、読者相互登録出来ます。
毎日午後8時半~9時頃に更新しています。
登録では「相手わかるように」に設定して読者登録してください。
読者様のブログは拝見に行き、「いいね」やブログ村・ブログラン
キングは出来るだけ押しに行きます。
Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。
お手数ですが、よろしく。ぽちっと押すだけ