二本松城(日本100名城) 1 歴史 | みどりの木のブログ

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1か所修正したので再UPしました。

今回から二本松城(日本100名城)の紹介

です。2021年4月17日に訪問しました。

 

箕輪門と桜(ガイドさんが持っていた写真)

残念ながらこの城も桜はほぼ散っていました。

 

再建された箕輪門です。

1643年に丹羽光重は、二本

松城の築城にあわせて門の

建築も行いました。

材料となる樫の木を箕輪

(現在二本松市内)山王寺山

の御神木を用い、この門は

楼門として完成し「箕輪門」

と命名されました。

戊辰戦争で焼亡しますが、

昭和57年に再建されました。

 

現在地点にある案内板です。

下の方に箕輪門があります。

 

 

歴史

 

 

室町時代

1341年室町時代初期の室町幕府

より奥州探題になった畠山高国が

塩沢・殿地が岡に最初の居を構え、

地名を二本松と改称します。畠山氏

7代当主の二本松満泰が1414年

にこの地に二本松城を築きます。

 

足利義純が亡き畠山重忠の妻に

入り婿して、畠山義純となりました。


戦国・安土桃山時代

二本松氏は、戦国時代になると、

伊達政宗の攻撃を受けます。

1585年10月に15代当主の、

二本松義継は政宗の父:輝宗

に降伏を申し出ます。輝宗の

もとに出向いた義継は、輝宗

を拉致して二本松城へ連れ去

ろうとしますが、これを聞きつけ

た政宗に輝宗もろとも射殺さ

れました「(粟之巣の変事)。

NHK大河で伊達政宗が「二本

松の松は二股か」と叫んだこ

とをよく覚えています。これで

政宗は父殺しになります。

政宗はすぐに二本松城攻めを

開始したが、守備側は義継の

子:国王丸を継嗣に立て籠城、

城は政宗の猛攻によく耐え、

援軍の佐竹義重・相馬義胤

らが加勢に駆けつけたことも

あり(人取橋の戦い)政宗の

攻撃を撃退します。

1586年に政宗が再度二本

松城を攻撃すると内通者が

出て、7月に相馬義胤の口

添えにより、国王丸は二本

松城を開城し、落ち延びます。


政宗は片倉景綱、次に伊達

成実を二本松城代としたが、

1591年に政宗が葛西大崎

一揆の戦後処理で豊臣秀吉

の命令により、岩出山城に

転封されると、二本松城は

会津若松城主蒲生氏郷の

支城となります。蒲生氏郷

は蒲生郷成・町野繁仍を城

主にしました。

 

初期の石垣は蒲生氏郷の命

で穴太衆が積んだ石垣です。

 

1598年に氏郷の子秀行が

秀吉の命令で転封し、代わ

って上杉景勝が会津に入る

と城代は下条忠親となりま

した。

江戸時代

2年後の1600年には徳川

家康に敵対した上杉景勝は

関ヶ原の戦いの後に米沢城

に移されます。会津には蒲生

秀行が復帰し梅原弥左衛門

と門屋勘右衛門が二本松城

代となります。


1627年に秀行の嫡男忠郷

が跡継ぎの無いまま死亡し、

次男の忠知が伊予松山城に

転封となり、会津に忠知と入

れ替わりに加藤嘉明が入ると、

二本松城には加藤氏の松下

重綱が下野烏山城から5万

石で入城した。


1643年に嘉明の嫡男明成

が改易となり、代わって白河

小峰城より丹羽長秀の孫で

ある丹羽光重が10万700石

で入城します。光重は二本松

藩の藩庁として大改修を行

ないます。この際に、本丸に

石垣が積まれ、3重の天守

が築かれました。この時には

大手門が築かれませんでした。

 

大手門解説板です。

 

1832年に二羽長富の時に、

大手門が完成します。

 

大手門の古絵図です。

枡形構造の大手門ですね。

 

大手門跡です。

赤線よ手前が堀跡です。

大手門の切込みハギの

石垣のみが残ります。

(グーグルストリートビューより)

 

二本松城全体図

 

大手門は奥州街道沿いにありました。

明治維新まで丹羽氏の居城でした。

 

明治維新以後


1868年の戊辰戦争に際して、

二本松藩は奥羽越列藩同盟に

参加して新政府軍と戦います。

7月29日に藩兵が白河口に

出向いている隙をつかれて、

新政府軍が二本松城を攻撃、

僅か1日の戦闘で落城します。

ライフル砲(大砲)で攻撃され

たので、一方的な攻撃だった

と考えられます。

手薄になった攻城戦において、

「二本松少年隊」と呼ばれる

少年兵も動員されました。

 

13~17歳の二本松少年隊

の銅像です。×は丹羽家の

家紋です。

 

藩主の丹羽長国は米沢に避

難し、9月に降伏し城代家老

と勘定奉行が切腹しました。

 

切腹した2人の供養碑です。

 

石高を半減されますが藩が

存続します。この攻城戦で

城の建物のほとんどが焼失

します。

明治5年(1872年)に廃城

令によって残る建物も全て

破却されました。

 

山田脩銅像です。

明治6年に二本松製糸株式会社

が山田脩脩氏により設立されまし

た。

 

二本松製糸株式会社絵図です。

 

1982年に箕輪門と附櫓が

復元されます。(最初の写真)

 

1993年~1995年にかけて

本丸の修復、復元工事がな

され、天守台や本丸が整備

されました。

 

天守台から見た本丸です。

 

平成18年(2006年)4月に

日本100名城に選定されました。

 

今回はここまでで、明日に続く

 

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