昨日の続きです。
今回は賀名生皇居の周辺で、
北畠親房墓地です。
賀名生梅林の紅梅です。
下図②の北畠親房の墓です。
北畠親房は賀名生で亡くなりました。
奈良県五條市西吉野町賀名生
の華蔵院跡の墓地です。鳥居があり、
墓は六角の土饅頭形です。
②が墓地の位置です。
グーグル地図からです。
北畠親房肖像画です。(阿部野神社)
NHK大河ドラマ「太平記」で近藤正臣
の北畠親房です。
村上天皇の末裔だった北畠氏は摂家
に次ぐ家格の清華家公家でした。
北畠親房は後醍醐天皇が即位すると、
吉田定房・万里小路宣房とならんで、
「後の三房」と言われる1人です。
38歳で出家しますが、鎌倉幕府が
倒れ後醍醐天皇による建武の新政
が始まると、親房は還俗して政界に
復帰します。
奥州駐屯を命じられた長男の顕家
に随行し、義良親王(のちの後村上
天皇)を奉じて陸奥国多賀城へ行
きます。
長男の北畠顕家(霊山神社)
NHK大河ドラマ「太平記」で女性の
後藤久美子が北畠顕家でした。
顕家は美少年と言われたので、
女性が起用されたかも?
義良親王(南朝2代目の後村上天皇)
1336年(建武3年)親房は尊氏を
討伐するために長男顕家とともに
京へ戻り、新田義貞・楠木正成らと
尊氏を九州へ駆逐するが、1336
年7月に勢力を盛り返した、尊氏に
湊川の戦いで敗れ、楠木正成が
戦死します。
新田義貞
楠木正成(楠妣庵)
足利尊氏(栃木県立博物館)
1338年5月に長男の顕家が堺
で戦死し、同年閏7月には義貞が
越前国灯明寺畷で戦死します。
南朝方の総司令官となった親房
は伊勢国で度会家行の協力を得
て南朝方の勢力拡大を図ります。
その後、関東地方に南朝勢力を
拡大するために結城宗広らと、
義良親王と宗良親王を奉じて
伊勢国大湊(三重県伊勢市)か
ら海路東国へ渡りますが、暴風
にあって両親王とは離散します。
伊達行朝・中村経長らと共に、
常陸国へ上陸し南朝勢力の拡大
に努め、この頃に『神皇正統記』
を著します。親房の常陸での
活動は約5年でした。
1343年吉野へ帰還しました。
死去していた後醍醐天皇に代
わり、若い後村上天皇を擁して
南朝の中心人物となります。
主に摂関や天皇の外戚・生母
などに与えられる准三宮に昇
格します。
5年前に書いたブログです。
1348年に四條畷の戦いで。
楠木正行ら南朝方が高師直
に敗れると、南朝は吉野から
さらに山奥深い賀名生行宮
に落ち延びます。その後は
足利尊氏・直義兄弟争いが
勃発します。北朝が分裂し、
1351年に尊氏は南朝に
降伏します。
このために正平一統が成立
すると、これを利用して親房
は一時的に京都と鎌倉の
奪回にも成功しました。
足利直義の死後は尊氏の
裏切りで、南朝の本拠地は
賀名生に戻ります。
1354年4月に賀名生で死
去します。享年62でした。
今回はここまでで、明日に続きます。
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