昨日の続きです。
今回は本丸です。
本丸横の復元沼です。
露出補正-3で撮影しました。
本丸跡推定地を赤線で
囲みました。
二の丸跡の橋を渡った上図①
の本丸跡です。
復元沼との高低差が分かります。
水攻め後も高松城は改修を受けて
維持されました。
高松城は宇喜多領となり、
家臣の花房正成が城主
として入城します。そして、
1600年の関ヶ原の戦い
では、宇喜多氏の旧臣で
他藩預かりであった花房
職秀が、徳川家康に味方
して活躍したので、8220
石の所領を得て、旗本に
なり、花房職秀が高松城
を陣屋として使用しました。
職秀の死後は、一国一城
令で廃城となったようです。
本丸から見た復元沼です。
上図②付近に行くと
この付近に下の解説板があります。
水攻め想像図です。
信長がまだ生きていたので、
この兜ではなかったかと思
います。
ここにある包囲図です。
本丸にある解説板です。
城主清水宗治の首塚です。
城主清水宗治の首塚です。
清水宗治の記念石碑です。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士の名を
高松の 苔に残して 」
これは宗治辞世の歌です。
天聴記念碑です。
天聴 (テンチョウ)とは天子がお聞き
になることです。
昭和5年に陸軍の大演習があり、
その時に高松農学校教諭の高田
馬治氏が昭和天皇に説明された
ことの記念碑です。
横にある高田馬治氏の銅像です。
上図③から上図本丸跡と書
いた方向です。本丸最高所
になっています。
ここの駐車場で車中泊した
ので、次の日の朝写真です。
本丸跡最高所です。
最高所から見ると
最高所から見た本丸跡です。
左側は最高所にある「清水宗治城跡」の
石碑です。
戦前の毛利家当主貴族院議員の書です。
下図③から見た本丸の北側です。
上図④の橋から見た復元沼です。
当時はもっと広く遠くまで沼が広が
っていたでしょう。
左端が本丸です。
今回はここまでで、明日に続く
読者募集中ですので、読者登録はここのリンクです。
希望があれば、読者相互登録出来ます。
毎日午後8時半~9時頃に更新しています。
登録では「相手わかるように」に設定して読者登録してください。
読者様のブログは拝見に行き、「いいね」やブログ村・ブログラン
キングは出来るだけ押しに行きます。
Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。
お手数ですが、よろしく。ぽちっと押すだけ