備中高松城(続日本100名城) 1 歴史  | みどりの木のブログ

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今回から秀吉の水攻めで有名な、

備中高松城の紹介です。

 

備中松山城の三村氏の有力家臣

である石川氏が築城しました。

天正3年(1575年)の備中兵乱で、

石川氏が主家三村氏とともに毛利

氏に滅ぼされた後は、清水宗治が

城主となります。清水宗治は備中

兵乱の際、石川氏の娘婿で重臣

でしたが、毛利氏側に従いました。

清水宗治が石川氏滅亡以前より

城主であったともいわれます。

 

現地にある案内板です。

 

 

 


天正10年(1582年)に織田信長

の重臣:羽柴秀吉は中国攻めの

先鋒を任され、4月に3万の軍勢

で、高松城攻め(備中高松城の

戦い)にかかります。

高松城の周囲は沼地に囲まれ

難攻不落とされていたため、攻城

戦は持久戦となります。5月8日

に入り黒田孝高の献策により城

を堰堤で囲む土木工事が開始さ

れました。これにより低湿地にあ

った高松城を水没させるというも

のです。12日後に堤防が完成。

梅雨時で足守川から流れ込んだ

水は堰堤内に満たされて、城は

水没します。

 


現地の水攻め案内板です。

加藤清正と書かれた所の

足守川から水を流し込み

ました。

 

羽柴秀吉から見た想像図は

 

現地にある秀吉から見た

水攻めの想像図です。

 

資料館の資料より、

水色で囲まれた部分が高松城です。

 

資料館の資料より、現在の

高松城跡です。

 

秀吉はここに信長を招く予定

でしたが、1582年6月2日に

本能寺の変が起こります。

翌日、陸と海上の両方を見

張っていたので、明智光秀

の毛利軍への密使を秀吉

軍が拘束します。その密書

で信長の死を知った秀吉

は、毛利方の軍使:安国寺

恵瓊を仲介役に和議を成立

させます。城兵の命と引き

替えに宗治は切腹します。

羽柴秀吉は明智光秀を討

つために「中国の大返し」

を行い、強行軍で畿内に

引き返しました。

 

その後、高松城は宇喜多

領となり、花房正成が城主

として入城します。そして、

1600年の関ヶ原の戦い

では、宇喜多氏の旧臣で

あった花房職秀が、徳川

家康に与して活躍したの

で、8220石の所領を得て、

旗本になり、花房職秀が

高松城を陣屋として使用

しました。

職秀の死後は、一国一城

令で廃城となったようです。

現在は秀吉が築いた堰堤

や、城の石積みの一部が

僅かにあるのみで、城跡

には宗治自刃の碑、宗治

首塚・胴塚があり、公園

として整備され資料館が

開館しています。

 

資料館です。

 

堰堤跡は高松城水攻め

史跡公園として整備され、

発掘調査により土杭等が

確認されています。

 

蛙が鼻の秀吉築堤跡公園です。

 

蛙が鼻に残る築堤です。


2017年に続日本100

名城に選定されました。

 

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