岩槻城 1 歴史と地形 | みどりの木のブログ

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今回から岩槻城の紹介です。

2020年8月9日に訪問しました。

 

地形は

 

元荒川(当時は荒川の本流)の

南西に広がる湿地に突き出した

岩槻台地上のヘリに主郭が築か

れました。

 

岩槻城は赤い下線部です。

(国土地理院地形図とグーグル

地図の合成より)

黄色い線の内側が台地です。

 

久伊豆神社のある南西に新正

寺曲輪、本丸の南側に新曲輪、

西側には武家屋敷や城下町が

広がっていました。石垣は使わ

れていない城です。

 

現地案内板より

江戸時代の岩槻城です。

かつて存在していた水堀の面

積は全国の城の中でも最大級

といわれます。

現在残るのは新曲輪と鍛冶

曲輪付近のみで、その他は

すべて破壊されました。

 

赤丸部分が現在残る史跡の

位置です。拡大すると

 

現在残る新曲輪と鍛冶曲輪です。

(案内板より)

 

現在の岩槻城です。(グーグルより)

元荒川の川筋も変わっていて、

現在は城下町を包み込むような

流れにはなっていません。

ほとんどが住宅地になりました。

 

「埼玉県道2号さいたま春日部

線」を開通させたため、主郭の

曲輪および堀は何も残ってい

ません。

現在では南端の新曲輪、鍛冶

曲輪が岩槻城址公園として県

史跡に指定されています。これ

らの曲輪は北条氏支配期に造

られた出丸であり、北条氏の

築城で知られる障子堀が発見

されています。

 

 

 

室町時代

 

古河城にいた古河公方・足利成氏

に対抗するため、1457年に扇谷

上杉持朝とその家臣だった太田

道真・太田道灌父子により、江戸

城・河越城とともに築かれとも、

1478年に古河公方方の忍城主

成田顕泰の父成田自耕斎正等が

築城したと記述された史料もあり

ます。なので、築城者は明確で

はありません。

 

太田道灌肖像画です。

 

築城後は太田氏の城となってい

ましたが、1486年に太田道灌

が主君扇谷定正に謀殺されます。

太田道灌が定正より偉い立場に

なったためと言われます。

翌年には扇谷上杉氏と山内上杉

氏が対立し戦乱期(長享の乱)と

なります。

乱終了後の、1509年には古河

公方奉公衆であった、渋江氏が

岩付城(岩槻城)主となったよう

です。

扇谷上杉氏に仕えていた、太田

資頼(太田道灌の養子の太田資

家の子)が北条方に寝返ります。

岩槻城の渋江氏を破り岩槻城を

奪取(1523年頃)します。しかし、

同年、扇谷上杉氏の援軍に攻め

られ降伏し、扇谷上杉氏に復帰し

ます。

1525年に北条氏に岩槻城を

奪われますが、1530年には

奪回します。

 

1533年に太田資顕が家督相続

して、北条氏との関係を強めてい

ます。主君・扇谷上杉氏が滅亡し

た河越夜戦(1546年)後には、

北条氏家臣となります。資顕が

翌年1547年に死去すると、武蔵

松山城を拠点としてた弟の太田

資正が岩槻城を攻め取り、力づ

くで家督を相続します。しかし、

北条氏に攻められ1548年に

北条氏に降伏し北条氏家臣の

時代が続きます。

1560年に上杉謙信の関東侵

攻(小田原城の戦い)が始まる

と、太田資正は北条氏から離反

し上杉軍として奮戦します。

謙信が越後に去ると、北条氏康

は報復として何度も岩槻城を攻

めています。

1563年から里見氏に加勢し、

第二次国府台合戦にて北条氏

と戦うも、敗北し岩槻城にもどり、

里見氏とともに再戦の準備中、

北条氏に通じていた太田氏資

(資正の嫡男)が父を追放し、

岩槻城主となります。

1565年に父の太田資正は

岩槻城奪還を図るが失敗しま

す。以後は岩槻城にもどりま

せんでした。1590年の小田

原征伐で秀吉の陣に三陣して

秀吉にも拝謁しますが、1591

年に病死します。

1567年に三船山合戦で、

里見氏と北条氏が激突します。

太田氏資は北条軍の殿を務

め討ち死にしました。その後、

岩槻城は北条氏の直轄となり、

1580年には北条氏直の弟の

源五郎が太田氏を継承して、

岩槻城主になるも死去して、

1585年にはその弟である

北条氏房が城主になります。

 

1590年に豊臣秀吉による

小田原征伐が開始されると、

北条氏房は小田原城に籠城

します。岩槻城は豊臣方から

攻撃を受けます。氏房の家臣・

伊達房実が指揮を取り岩槻

城に籠城します。2000人の

兵で浅野長吉など2万の兵

と戦います。

5月20日に開戦し、岩槻城

は3日間で落城しました。


1590年に北条氏は負けて、

徳川家康が江戸に入封しま

した。徳川家臣の高力清長

が岩槻城主となります。

 

江戸時代

 

江戸時代は江戸城北方の要

となり、幕府要職の譜代大名

の居城となっています。

 

現地案内板です。

 

江戸時代の復元想像図です。

太田道灌築城と決めつけられ

ています。

 

江戸時代大手門前の想像図です。

 

江戸時代の本丸絵図です。

 

岩槻藩5万5千石の城下町が

形成され、日光御成街道の宿

場町になります。 高力氏以後、

青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田

氏・藤井松平氏・小笠原氏・

永井氏と譜代大名の居城とな

りました。

 

明治維新

 

明治時代になると廃藩置県

で廃城となり、城の建物は競

売で払い下げとなりました。

その後城跡は城址公園とな

ります。
 

城址公園に残る江戸時代の

文化財はこれだけです。

(現地案内板です)

その他にも土塁・堀跡が残り

ます。


今回はここまでで、明日に続きます。
 

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