高槻城 4 三の丸にある野見神社 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

昨日の続きです。

今回は野見神社です。

 

高槻市民会館です。

この敷地の北の端に藤井竹外の

屋敷がありました。南側には野見

神社があります。

 

赤い線に沿って歩きました。

 

さらに南に歩くと永井神社があります。

永井藩主家初代を祀る神社です。

ただし、元々は野見神社があり、そこ

に摂社として祀られています。

 

野見神社とは書いていませんが、

野見神社の摂社として永井神社

があります。

 

桜の木の下枝で見え難いです。

下図現在地付近で撮影しています。

 

 

この右側に由緒書きがあります。

カメラを右に回すと

 

右が北大手道です。

 

左端に社務所が見えます。

右端に由緒書きがあります。

 

野見神社社殿配置図です。

 

野見神社由緒書きです。

左横の木の枝下側を刈りこんで

ほしいですね。

 

由緒解説板です。

 

880年に疫病が流行し、牛頭天王

を祀ると、疫病が治まりました。

村人は喜び牛頭天王社として祀っ

たのが始まりです。

 同神社は奈良時代、濃味(のみ)郷

の鎮守で『延喜式』(927年成立)の

式内社として、大変古い歴史をもっ

ています。
戦国時代には高山右近が高槻城

主となり、社領は没収されて、御

神体は宮司が石清水八幡宮に退

避しています。神社が一時この地

を追われたとされたとき、右近の

父飛騨守が「もと神の堂ありし処」

(フロイス『日本史』)に建てた高槻

天主教会堂とあり、天主堂推定地

となっています。

セミナリオなども建てられたとも伝

えられています。三の丸は右近の

時代は武家屋敷地ではなく町家

でした。

 

本丸の外側は町家でした。

武家屋敷もあったと思います。

 

江戸時代の高槻城です。

 

また、江戸時代には松平家が藩主

の時に、牛頭(ごず)天王社を新造

し社領が寄進されました。永井家

が藩主の時には社殿修築と社領

が寄進されています。

 

江戸時代の高槻城です。

 

明治時代に入り神仏分離令によ

り、牛頭天王はスサノオノミコトと

名前を変えて、また野見宿祢命

が祭神として祀られました。

 

手水舎です。

 

 

 

 

 

野見神社拝殿です。

 

野見神社本殿です。

 

左から能舞台と護国社です。

 

今回はここまでで、明日は永井神社です。

 

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