高槻城 3 高槻藩士の藤井竹外(ふじいちくがい) | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は高槻藩士の藤井竹外邸跡です。

 

左側ブロック塀付近のところに邸跡

がありました。下図教会と市民会館

の間にあります。下図①付近から北

方向を撮影しています。塀の向こう

側は高槻カトリック教会です。

 

 

高槻カトリック教会の南側に藤井竹外邸跡

の石碑があります。彼は50石取の高槻藩

中級家臣でした。邸は三の丸にありました。

 

永井神社と野見神社は同じ所に

あります。高山右近時代に町家

だった、三の丸は江戸時代には

武家屋敷になっています。

 

 

 

藤井竹外邸跡の石碑です。

下にある代表作の漢詩は

 「    花朝澱江を下る<藤井 竹外>


    桃花水暖かにして 軽舟を送る
    背指す孤鴻 没せんと欲する

  頭雪は白し 比良山の一角
    春風猶未だ 江州に到らず    」

 

意味は、やっと春に水もぬるんで

(水かさも増して)わが乗る軽舟を

㔟いよく押し流してくれる。後を振

り向くと、一羽の水鳥が天空の彼

方(かなた)に消え去ろうとするの

が見えた。
ちょうどその辺りに比良山が高く

聳(そび)え、その頂上には残雪

がある。こちらの温暖に似ず、

江州にはまだ春風が訪れてい

ないらしい。 です。

 

藤井竹外肖像レリーフです。

 

 

 孤高の詩人藤井竹外は、幕末の

激動期を生きた高槻藩の中堅家

臣でした。1807年生まれの彼は

名を「啓」とされていますが、これ

は1854年の、初版の「竹外二十

八字詩」稿本や書状に記された

名前です。藩役所の公式記録に

は「吉郎」とあります。家禄50石。

給人席といますから、古くは代々

知行地をうける権利をもつ家格で、

実力次第で政務の中枢を担いう

る身分でもありました。8歳から

18歳まで藩校菁莪堂で学びま

した。この時に漢詩に興味を持

ちました。

 

竹山の解説板です。


 竹外はいつのころからか詩作に

傾倒し、酒に浸り、勤番をきらっ

て病気だといっては家にこもり、

療養だといっては旅に出る毎日

だったといいます。

若き日、鉄砲術で家中無双と

いわれた竹外が、その後なぜ

「疎放、飄逸、酒乱」と評される

ような生活を選んだかは謎です

が、それを解く鍵の一つに大塩

平八郎の事件があります。
 天保8年(1837年)2月19日、

大塩平八郎(中齋)が大阪天満

与力町でおこした一揆は、彼

が高槻藩士と親交があり、高槻

藩の一部の子弟が門人として、

大塩の塾邸に学んでいたこと

などから、家中に大きな衝撃を

与えました。大塩平八郎から

親しく講学を受けた柘植牛兵衛

が、その夜、組織された一揆勢

鎮圧の隊長になるな、皮肉な

場面もありましたが、竹外自身

はこれへの参加を拒みました。

私淑した頼山陽はすでに亡く、

漢詩での社会批判をしていた

とはいえ、大塩平八郎のよう

な過激派にもなれなかった。

竹外は弾圧の姿勢を拒むこ

とで自らの節度を表したので

しょうか。彼の詩作の中に

のちに尊王派志士となる、

梁川星厳との交友を詠んだ

ものが多いのも、その思想

と行動にあらわ荒れていま

す。
 この事件があってから竹外

の奇行は、度を増して人々

の目をひきました。詩作に

取り付かれ、心にかなった

句が思い浮かぶと、あたり

構わず大声で「妙」と叫ぶ

のが、誰知らぬ者もない癖

となりました。泥酔して路上

に眠ったり、素足で野原を

渉遊することもしばしば。
 ある時、竹外は江戸勤番

を命ぜられました。しぶし

ぶ下ったものの、頭の中

は漢詩ばかり。近所の銭

湯へ行ったのはよいので

すが、帰り道を忘れ浴衣

のまま往来で地図を広

げていると、うしろから

友人の声。「もし、藤井殿、

何をしてござる」「いや

なに屋敷(藩邸)に帰る

道を忘れたによって、

探しておりますが」・・・。

「ハハハ、これは酔狂な。

屋敷はここでござろう」

みると竹外は藩邸の目

の前で地図を広げてい

たのでした。

55歳で隠居し、京都

三本木に移り住みます。

ここは師頼山陽の旧宅

に程近く、梁川星巌旧宅

とも鴨川を隔てて相対す

る位置でした。悠々自適

の詩作生活を送ったとさ

れます。
 こんな彼にも世情の変

転の中で、憂国の血が

騒いでいたに違いあり

ません。花鳥風詠の多

い彼の七言絶句の中で、

時おり尊王思想などが

のぞいていました。
竹外は明治維新直前

の1866年7月60歳で

亡くなりました。遺髪は

京都長楽寺頼山陽墓

の側に葬られました。

 

遺髪と印章は京都長楽寺頼山陽墓の

側に葬られました。右は漢詩代表作の

芳野(吉野のこと)です。

「    芳野懐古<藤井竹外>


    古陵の松柏   天飈に吼ゆ
    山寺春を尋ぬれば  春寂寥
    眉雪の老僧 時に帚くことを輟め
    落花深き処 南朝を説く     」

 

意味は 吉野を訪ねて、後醍醐天皇

の古い御陵の前に来ると、松や柏の

木は強い風にうなり声をあげている。

山中の如意輪寺あたりに春景色を

尋ねてみると、桜の花は散り人影も

なく静かでものさびしい。
眉毛のまっ白な老僧がしばらく掃く

ことをやめて、落花の散り敷いた

ところで南朝への思いを語りました。

です。

 

最後に

長男の又一(貞臣)が槍

の名手でありながら、槍

の時代ではないので、

明治2年藩の兵制改革

で銃卒隊長になってい

ます。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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