芥川山城(続日本100名城) 1 歴史 | みどりの木のブログ

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毎日UPでブログ

松永久秀の肖像画を追加したので、

再UPしました。

今回から芥川山城(続日本100名城)

の紹介です。2020年7月18日訪問し

ました。

最初に芥川山城の歴史からです。

 

下図主郭②から見た大阪平野です。

左側が京都側で、右側が大阪市内で

す。

 

現地にある想像絵図です。

 

これが芥川山城の全体図です。

芥川山城は標高182.6mの三好山に

築城されています。東に隣接する帯仕

山(絵図右上)の方が192.3mと高い

のですが、その山頂部がなだらかで攻

め易いために、城郭には不向きでした。

北・西・南の三方を芥川で囲まれて天

然の要害として、摂津峡の切り立った

断崖上に築城されたのが、三好山に

ある芥川山城です。

 

芥川山城グーグル3D地図です。

 

断崖の下を流れる摂津峡です。

 

これが下図③の主郭御殿跡です。

発掘調査で大きな御殿の土台が

発見されています。

 

 

 

上図①の所です。

崩れていますが大手石垣も見えます。

 

現地にある解説板です。

芥川山城は1516年までに細川高国

が築城しました。

 

築城した細川高国肖像画です。

 

細川高国時代

 

初代城代は能勢頼則でしたが、彼は

1516年に亡くなります。2代目の城

代は息子の能勢頼明で、次に1523

年には能勢国頼が3代目城代となり

ますが、1526年に細川高国の香西

元盛謀殺に激怒した香西元盛の兄

の波多野稙通・柳本賢治らが反乱を

起こします。波多野稙通らが丹波か

ら京都へ向かう途中、芥川山城を含

む摂津の城々を降伏開城させました。

このときに能勢国頼は逃亡したよう

です。

 

芥川山城の周辺グーグル地図です。

 

細川晴元時代

 

1533年に淡路に追われていた、

細川晴元が軍勢とともに芥川山城

に入城します。この時期、細川晴元

は大きな権力を持っており、芥川山

城も繁栄期を迎え、新しい曲輪が

増設され、防御施設も拡充されて

いったと思われます。1535年に

晴元は京都に移りますが、度々

芥川山城に戻り指揮をとってい

ます。これは芥川山城が要害の

地であったからです。晴元の肖像

画はありませんでした。

三好長慶時代


1539年8月に晴元は三好長慶

によって京都を追われました。

 

三好長慶肖像画です。

 

松永久秀肖像画です。

新しく発見された肖像画で高槻市立

しろあと歴史館で実物が展示されて

います。

三好長慶の忠実な家臣でした。

 

三好家の主君は細川家でした。

長慶の父元長は細川晴元に殺

されました。

 

三好長慶の年表です。

 

芥川山城には晴元に替わり、三好

長慶が入城しますが、両者の間に

和議が成立し9月に退城します。

替わって晴元派の薬師寺与一が

入城しました。その後、晴元と同族

の細川氏綱との間に確執が生じ、

1546年に芥川山城は氏綱方に

奪われますが、翌1547年に三好

軍に包囲され、6月に芥川山城は

無血開城し長慶の支配下となり

ます。

三好長慶は父・元長の従弟に当

たる芥川孫十郎を城代にします。

しかし、1553年に孫十郎に謀反

の疑いありと判断した三好長慶

は芥川山城を包囲し、孫十郎は

篭城戦の末に兵糧がつきて降伏

します。孫十郎が退去した後は

長慶自身が入城し、摂津におけ

る拠点とし、当時天下と言われ

た畿内を、約7年間統治した城

ともなりました。

 

三好長慶時代の芥川山城です。

 

この頃に芥川山城は再び防御

施設を拡張していったようです。

 

1560年に長慶は河内飯盛山

城へ移り、息子の三好義興が

城主となります。しかし、義興

は1563年に22歳で急死し、

1564年7月に息子の後を追

うように長慶も飯盛山城で亡く

なります。

義興以後は三好長逸が城主に

なっていたようだが、1568年

に織田信長が摂津に侵攻して、

高槻の天神馬場に陣取り芥川

山城を攻撃、その日のうちに

落城し長逸は細川昭元を連

れて阿波国へ逃れました。

 

和田・高山時代

織田信長はに芥川山城に入城し、

「摂津三守護」であった和田惟政

を城主にします。
翌1569年1月に三好三人衆は

将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃

する事件(本圀寺の変)を起こし、

これに対し和田惟政がいち早く

駆けつけ、三人衆の撃退に大き

な役割を果たします。この功によ

り平城の高槻城も与えられました。

和田惟政は高槻城に入城して、

家臣の高山友照(高山右近の父)

に芥川山城を預けました。
しかし、惟政は徐々に近隣武将

との間で対立して、1571年に

白井河原の戦いで荒木村重と

中川清秀に討ち取られます。

高槻城は息子の和田惟長が継

ぎますが、惟長に暗殺されそう

になった、高山親子高山友照・

重友父子は1573年に惟長を

追放し自らが高槻城主となりま

した。友照は50歳を過ぎると、

高槻城主の地位を右近に譲り

ます。

 

芥川山城と高槻城です。


この時に芥川山城は廃城同然

となり、表舞台から消えました。

 

高槻城跡の高山右近銅像です。

平和都市宣言ということでハト

が多いです。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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