川越城 1 歴史 | みどりの木のブログ

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毎日UPでブログ

お昼ごろに記事を書きたしましたので、再UP

 

今回から日本100名城の川越城紹介です。

今日はその歴史です。

 

室町時代

室町幕府より関東の押さえとしておかれた

鎌倉公方足利氏は京都からの独立を望み

ます。鎌倉公方の補佐役でありながらも、

中央を支持する関東管領上杉氏との内部

対立が生じ、1454年に鎌倉公方が関東

管領を殺害したので、関東を戦乱の世とし

た享徳の乱が勃発します。鎌倉公方はこ

の乱で衰退し、公方は渡良瀬川の対岸に

ある下総国古河に拠点を構え(古河公方)、

中央の支持を得た上杉氏と、関東を二分

します。武蔵国東部の低湿地帯は、上杉

氏と古河公方の対立の最前線となったた

め、古河公方の勢力(古河城や関宿城・

忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地と

して、1457年に扇谷上杉氏の上杉持朝

は、家宰の太田道真、太田道灌父子に

河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主

となります。

 

太田道灌肖像画です。

 

河越城は武蔵野台地の北端の丘陵に

位置し、東方の低地を睨んだ自然の要

害に位置しています、比高が5~6mの

平山城でした。城の北に赤間川(現新

河岸川)が流れ、さらに北を入間川など

が流れて外堀の役割を果たしています。

城の南は遊女川(よながわ)の湿地帯

でした。

 

現代の川越城です。(グーグルより)

 

道灌の築城方法は、「道灌がかり」と

いう「連郭式縄張り」で、子城、中城、

外城など独立した曲輪を連ね、周囲

に高さ二間ほどの土塁を築きます。

曲輪の間には堀を巡らし、飛橋と呼

ばれる橋で連結、各入口には土橋、

引き橋、食い違い虎口や横矢がかり

などの仕掛けを作った。敵が侵入し

ても中城に拠って防げる構造でした。

城郭はおよそ5万坪、8門8櫓を構え

ます。新編武蔵風土記稿によると、

本丸南西の20mの高台に富士見櫓

を築いたのも道灌です。

 

富士見櫓跡

 

築城後、城北西に太田道灌屋敷

が築かれます。また、三芳野神社が

祀られた天神郭も造られます。

 

幕末慶応3年の川越城です。

築造時より拡張されています。

 

幕末慶応3年の川越城です。

現在地市役所にある石碑です。


加えて、上杉持朝は南方の下総国

との国境に江戸城も築城させ、道

灌を城主とし、両城を軍事道路(後

の川越街道)で結び、古河公方へ

の防衛線を構築しました。

太田道灌はこの乱の収拾に尽力し、

1482年に室町幕府と古河公方は

和睦したが、名声を高めた道灌を

恐れた主君扇谷上杉定正(持朝の

子)は、道灌を暗殺します。これに

より太田家は扇谷家と離反、上杉

家内も山内家と扇谷家の内部分裂

と抗争を繰り返し、それに古河公方

が介入する、泥沼の長享の乱とな

ります。1497年には扇谷上杉氏

の当主:上杉朝良が居城とする河

越城に対抗して、山内上杉氏当主

の上杉顕定が入間川対岸の旧河

越館に「上戸陣」を構築し、古河

公方の足利政氏を招いて7年間

も睨みあいます。

 

戦国時代

早雲の継嗣:北条氏綱は武蔵国征圧

のため、1524年に扇谷上杉朝興の

江戸城を攻め落とし、翌年には扇谷

方の岩槻城を占領して、武蔵の内陸

に領地を広げます。朝興は河越に逃

れて形成を建て直し、蕨城や岩槻城

で攻防を繰り広げます。
1537年に朝興が死んで朝定が家

督を継ぐと、氏綱はそれに乗じて一

気に攻勢をかけ、河越城を奪取し、

武蔵国を支配します。朝定は北方の

松山城へのがれ、河越城は以降、

後北条氏の武蔵国支配の拠点とな

ります。特に「河越衆」と呼ばれる、

大道寺氏らの精鋭部隊が置かれま

した。

 

北条家2代目の北条氏綱肖像画


1541年に北条氏綱が死に、氏康

が継ぐと、河越城奪回をはかる扇谷

上杉朝定は、それまで敵対してきた

古河公方(足利晴氏)・山内上杉氏

(上杉憲政)と連合を組み、1545年

10月から8万の大軍で河越城を包

囲し、後北条氏との決戦に臨みます。

また今川義元、武田信玄と連携し、

駿河と武蔵でほぼ同時に後北条氏

に対する軍事行動に出ます。

「黄八幡」で有名な北条綱成は半年

もの籠城で抵抗、1546年4月には

北条氏康による夜襲「河越夜戦」で

連合軍を撃退します。

 

北条綱成肖像画(信長の野望より引用)

イメージ画です。

 

北条家3代目の北条氏康肖像画

 

後北条氏系図

 

後北条家は武蔵国の支配を完成

させました。一方、扇谷上杉氏は当

主討死により滅亡、公方は古河に

逃走、山内上杉氏は武蔵を捨てて、

上野国へ逃亡し、長尾景虎に保護

されました。後に景虎は上杉家と

関東管領を継承して上杉謙信と名

乗りました。
後北条氏は河越城に大幅な改修を

実施します。城主の大道寺政繁は

三の丸と八幡郭の拡張を行い、西

方面への防備が強化されました。

 

北条家宿老の大道寺政繁肖像画

豊臣北國軍に降参し、忍城攻めの道案内を

務め、5月22日に武蔵松山城、6月14日に

鉢形城、6月23日に八王子城攻めと北条氏

の拠点攻略戦に加わっています。八王子城

攻めにおいては、城の抜け道を教えたり、

正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたり

など、攻城戦に際し最も働いたとされていま

す。
しかし7月5日に小田原城が陥落した後の

同月19日、秀吉から北条氏政・氏照・松田

憲秀らと同じく開戦責任を咎められました。

秀吉に寝返りを嫌われた、政繁は自らの

本城である河越城下の常楽寺(河越館)に

て切腹を命じられました。享年58


安土桃山時代

1590年の豊臣秀吉による小田原征伐では、

河越城を守っていた後北条氏の宿老:大道寺

政繁が、上野国まで出陣して迎え撃つが降参

しています。そして、前田利家の軍勢が河越

城に入城します。
徳川家康が関東に封ぜられたので、徳川氏

譜代筆頭の酒井重忠が川越に封ぜられて、

川越藩が立藩します。

江戸時代

 川越藩で最大の石高を領したのは、越前

松平家(引っ越し大名)の17万石でした。

江戸時代には川越城を中心に城下町が形

成され、小江戸と称されます。城下は武蔵

国の商工農の中心、物資の集散地として

栄えました。商品は新河岸川を通して江戸

に運ばれた。川越街道は川越藩主の参勤

交代に利用されました。
1653年に大河内松平家:松平信綱(知恵

伊豆)により、大拡張工事がなされ寛文年

間に完成し、倍の規模の近代的城郭にな

ります。

 

松平信綱の木像


中郭、追手郭(あわせて外郭)、北東に新郭、

東に帯郭、南に田郭が付加された。川越城

は、本丸、二の丸、三の丸や八幡郭、外郭、

田郭、新郭などの曲輪、本丸の富士見櫓

(南西隅)と虎櫓(北西隅)、二の丸の二重

の菱櫓という4つの櫓、西大手、南天手、一、

二、三、天神、蓮池、中、清水、田郭、帯郭、

新郭、埋の13の門からなり、土塁・水堀を

張り巡らした総面積が、約32ha余りの

規模をもつ城郭となります。天守の代用と

なった富士見櫓は、基壇の高さ15.4m、

櫓の高さも15.4mでした。信綱による修

築以前の姿は、国立歴史民俗博物館の

「江戸図屏風」に残っています。 藩主の

住居は1846年に焼失するまで、二の丸

にあり、二の丸には武具方役所もありま

した。隠居屋敷は三の丸にあり、三の丸

南には馬場と馬見所が設けられました。

家老の屋敷は外郭に配され、新郭には

米蔵や火薬庫がありました。

 

現代地図に江戸時代の地図を重ねています。


二の丸御殿が1846年に焼失したので、

1848年に本丸御殿(当時本丸は空き

地だったので)の造営が行われました

これが現存する本丸御殿です。16棟

で建坪1025坪ありました。

 

本丸御殿の玄関です。

 

20年後には明治維新になります。

明治維新以後
1868年(明治元年) 松井松平家・松平康英

が明治政府に恭順の意を示すため、堀を埋

ます。
1873年(明治6年)廃城令に伴い川越城内

の不用・破損の建物等の入札・売払が行わ

れました。
1924年(大正13年) 川越城跡が埼玉県指

定史跡に指定されました。

1967年(昭和42年)本丸御殿が県指定有

形文化財に指定されました。
2006年(平成18年)日本100名城(19番)

に選定されました。
2017年(平成29年)初雁球場を移転させ

城址公園を拡張すると発表されました。


今回はここまでで、明日に続きます。

 

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