基肄城 2  「梅花の宴」から令和 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

昨日の続きです。

中臣鎌足が百済の王族であったという説ですが、

一方で、中臣鎌足が渡来系であった可能性はほ

ぼ無いという説もあります。その最大の理由は、

大化の改新の1年前644年に、彼が神祇伯に

指名されたことです。中臣氏は鎌足以前も以後

も天皇家の祭祀と深い関係にある氏族である事

が、日本書紀やその後の正史に書かれていて、

鎌足(644年の時点では鎌子)もその一族であ

るからこそ神祇伯に指名されたと、考えるのが

合理的です。ごく最近やってきて渡来人の一人

に、朝廷の祭祀をとりしきる長官の地位を与え

るとは考え難いことです。

どちらにしても天皇陵などを発掘でもしない限

り、何の証拠もないことなので、中臣氏の家系

図を信用して、中臣鎌足は日本人であると考

えておきます。

 

今回は基山のふもとの駐車場から基山までです。

 

下図①辺りにある解説板です。

基肄城に登って、大伴旅人が歌った歌です。

この歌は727年に大宰府長官として赴任中

に妻を亡くしたとき、天皇の命で弔問に来た、

勅使石上朝臣堅魚とともに、基肄城に登り

里遊びした日に、亡き妻を思い歌いました。

さらに、大伴旅人は万葉集の選者だった、

大伴家持の父でした。

大伴旅人は大宰府の山上憶良らとともに、

自宅で「梅花の宴」という歌会を催します。

梅花を題材に詠まれた32首の和歌が、新

しい 日本の元号「令和」の選定元ともなり

ました。

 

大宰府周辺のようすです。

 

グーグルより引用の基肄城地図です。

上図⑧が基山頂上404.5mです。

中世の木山城の辺りです。基肄城の

一角に木山城が造られました。

 

現地の基肄城縄張図です。

 

下図①でふもとの草スキー場です。

子供の多かった昔は賑わったそうで

す。

 

①からピンクの線に沿って登ります。

 

 

 

上図②の辺りです。

 

芝生養生中です。

 

 

 

下を見たところです。

 

右端の塔は⑤の所にある、

天智天皇欽仰之碑です。
 

天智天皇欽仰(きんぎょう)之碑

 

基山付近グーグルより(右上が北)

 

⑤にある天智天皇欽仰(きんぎょう)之碑

ここから⑥の休憩所に行きます。

 

⑥の休憩所が見えます。

 

⑥の休憩所から見た周囲の風景は

 

赤く囲ったところが基山町です。

 

西方向です。

この右側北方向は

 

北方向の大宰府方向です。

 

東方向です。

基山町の新興住宅地が見えます。

さらに右にカメラを回すと

 

南側で鳥栖市方向です。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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