昨日の続きです。
今回は「百万一心」の石碑です
洞春寺跡の下図6にある、百万一心の石碑です。
右にその由来が書いてあります。
現地にある解説板です。
6の所にこの石碑があります。
解説石板です。
安芸高田市歴史民俗博物館の解説板です。
毛利元就墓所の所にこの石碑があります。
もらったパンフレットの地図です。
⑤に姫の丸がありますが、元就は
郡山城改修の時に、人柱に代わり
「百万一心」と彫った石を、姫の丸
に埋めると工事がうまくいったそう
です。
その後幕末に長州藩士武田泰信
が、姫の丸で発見し、石を拓本に
取りました。その拓本を毛利元就
を祀る豊栄神社(山口市)に奉納
しています。
その後、吉田町をあげて郡山全山
を探しましたが、石の実物は発見
されませんでした。
実物の石は現在も未発見のまま
です。このことは吉田郡山城最大
の謎だそうです。
その後昭和6年にその拓本を元
に造られたのがこの石碑です。
昭和6年に拓本から造られた石碑です。
もう一度よく見てもらうと、「百万一心」
ではなくて、どう見ても「一日一力一心」
と読めます。
安芸高田市歴史民俗博物館で配布されている
「百万一心のはなし」では、12歳の松寿丸(元就
の幼名)が厳島神社を参拝したところ、泣き続け
る5~6歳ぐらいの少女を見つけます。この少女
は母親と巡礼の旅をしていたが、ある城の築城
で母親が人柱に選ばれてしまった。幼い頃に父
母と死に別れている松寿丸は、少女に同情して
郡山城に連れ帰ります。15~16年の年月が経
って、元服した元就が吉田郡山城主となった頃、
本丸の石垣が何度築いても崩落するので困って
ました。やがて、人柱が必要だという声があがっ
たため、普請奉行は巡礼の娘を人柱にすること
にします。娘自身も、元就に助けて貰ったお礼と
して喜んで人柱になると答えたが、元就は「その
娘を人柱にしてはならぬ」と厳命。翌日、元就は
「百万一心」と書いた紙を奉行に渡し、その文字
を石に彫って、人柱の代わりに埋めるよう命じま
す。そして、人柱を埋めずに人命を尊び、皆で
心と力を合わせてことにあたるよう教えました。
この話から「百万一心」の石が埋めてあること
になりました。元就が少女を郡山城に連れ帰っ
たことになっていますが、元就は若い頃には
猿掛城で暮らしていますので、矛盾していま
す。
今回は短いですがここまでです。
明日に続きます。
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