吉田郡山城7 百万一心の石碑 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

昨日の続きです。

今回は「百万一心」の石碑です

 

洞春寺跡の下図6にある、百万一心の石碑です。

右にその由来が書いてあります。

 

現地にある解説板です。

6の所にこの石碑があります。

 

解説石板です。

 

安芸高田市歴史民俗博物館の解説板です。

毛利元就墓所の所にこの石碑があります。

 

もらったパンフレットの地図です。

⑤に姫の丸がありますが、元就は

郡山城改修の時に、人柱に代わり

「百万一心」と彫った石を、姫の丸

に埋めると工事がうまくいったそう

です。

その後幕末に長州藩士武田泰信

が、姫の丸で発見し、石を拓本に

取りました。その拓本を毛利元就

を祀る豊栄神社(山口市)に奉納

しています。

その後、吉田町をあげて郡山全山

を探しましたが、石の実物は発見

されませんでした。

実物の石は現在も未発見のまま

です。このことは吉田郡山城最大

の謎だそうです。

その後昭和6年にその拓本を元

に造られたのがこの石碑です。

 

昭和6年に拓本から造られた石碑です。

もう一度よく見てもらうと、「百万一心」

ではなくて、どう見ても「一日一力一心」

と読めます。

 

安芸高田市歴史民俗博物館で配布されている

「百万一心のはなし」では、12歳の松寿丸(元就

の幼名)が厳島神社を参拝したところ、泣き続け

る5~6歳ぐらいの少女を見つけます。この少女

は母親と巡礼の旅をしていたが、ある城の築城

で母親が人柱に選ばれてしまった。幼い頃に父

母と死に別れている松寿丸は、少女に同情して

郡山城に連れ帰ります。15~16年の年月が経

って、元服した元就が吉田郡山城主となった頃、

本丸の石垣が何度築いても崩落するので困って

ました。やがて、人柱が必要だという声があがっ

たため、普請奉行は巡礼の娘を人柱にすること

にします。娘自身も、元就に助けて貰ったお礼と

して喜んで人柱になると答えたが、元就は「その

娘を人柱にしてはならぬ」と厳命。翌日、元就は

「百万一心」と書いた紙を奉行に渡し、その文字

を石に彫って、人柱の代わりに埋めるよう命じま

す。そして、人柱を埋めずに人命を尊び、皆で

心と力を合わせてことにあたるよう教えました。

この話から「百万一心」の石が埋めてあること

になりました。元就が少女を郡山城に連れ帰っ

たことになっていますが、元就は若い頃には

猿掛城で暮らしていますので、矛盾していま

す。

 

今回は短いですがここまでです。

明日に続きます。

 

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