私部城の紹介5 二郭(天守)周辺 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は小字に天守という地名が残る二郭の

辺りの紹介です。

 

1578年に織田信長が堺から京都への帰り

道で、安見新七郎所で休憩すると、信長公記

にあるので、私部辺りが京都と堺を結ぶ交通

の要衝であった可能性があります。その場合

私部が中間あたりです。河内は信長により、

1575年に平定されています。平定後に信長

は廃城令を出しますが、堀を埋めて天守を壊

し、廃城にしたことにして、館として使っていた

と考えられます。

 

信長は長尾街道と東高野街道で堺と京都   

を往復した可能性があります。馬なら宿泊

しなくてもOKですね。

 

私部城には天守があったと言われています。

それは安見右近が松永久秀の配下であり、

久秀は信貴山城に天守を造っていたことか

ら、安見右近も東高野街道を見張るために

二郭に、2~3階の望楼型天守を造った可

能性が大きいです。

 

この縄張図番号で紹介します。

 

④から⑤方向を見たところです。

近づくと

 

⑤から見たところです。

 

⑥の所にある井戸です。

 

 

 

二郭の上に上がります。

 

二郭の上にあがった地図⑥地点です。

左の木が生えている所辺りが少し高い

ので、天守があったと考えられます。

また、かなり広いので、警備にかか

わる家臣の屋敷もあった可能性が

大きいです。

 

 

古写真で見た1961年の私部城跡です。

 

⑦から見た堀と主郭です。

 

⑧から見た堀と主郭です。

 

⑧の辺りから振り返り見た南方向です。

 

⑧から⑪方向です。

車道が造られて、二郭は分断されています。

 

①から本郭方向を見たところです。

 

①から⑨の方向に歩きました。

 

 

 

二郭の掘削断面です。

 

本郭です。

 

⑨の辺りから見た、百々川と二郭です。

 

⑨の辺りから見た、手前の百々川と本郭です。

 

今日はここまでで、明日が最終回です。

 

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