狭山藩陣屋南表門の紹介 | みどりの木のブログ

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すいません。

今回は大阪にあった、1万石の狭山藩陣屋の南

表門紹介です。

天正18年(1590年)に、豊臣秀吉の小田原征伐

により、北条氏第4代当主の北条氏政は戦争責任

を問われ切腹しますが、、第5代当主の北条氏直

は徳川家康の娘婿であり、北条氏規(氏政の弟)

は和平に尽力して、秀吉とも会見していたという

ことで特別に許され、高野山での蟄居を命じられま

す。
1591年に氏直は嗣子無く30歳の若さで死去し

ます。このため北条氏の嫡流は断絶しますが、

北条氏規がその跡を継いで後北条氏の当主とな

ります。秀吉が死亡すると、家康からを許されて

氏規の子である北条氏盛は下野国内で4000石、

氏規も河内狭山で7000石を領します。1600年

に氏規が没すると、氏盛はその家督と遺領を継い

で、1万1000石の狭山藩所初代大名となります。

これが狭山藩の始まりで、以後、後北条氏12代

の支配で明治維新まで続きました。小田原城を

明け渡せば2か国を与えるという約束だったのに、

約1万石しかもらえませんでした。
北条氏盛は大坂屋敷で政務を執っていました。

1616年に2代氏信のとき、狭山池北畔に陣屋

を築きました。3代氏宗の代にようやく上屋敷が

完成します。5代氏朝の代には東除川対岸の

半田村に下屋敷が完成します。
藩主御殿は1782年に焼失し、1786年に再建

されました。 

 

手前が狭山藩陣屋の表門です。

現在は西本願寺堺別院の御成門に

なっています。明治時代に堺県庁だ

った時、明治天皇が御幸されたので

御成門になっています。

 

西本願寺堺別院の境内図です。

 

西本願寺堺別院山門です。

 

現地の解説板です。

堺別院は明治4年から明治10年まで、堺県庁の

庁舎でした。廃藩置県前に大阪狭山藩北条家の

財政赤字が限界にあったので、領地を明治政府

に献上しました。ほどなくして堺県の県内にあった

ため、県庁の門としてここに移築されました。

 

解説板より本堂の祭壇です。

 

移築場所は昨日UPした避難地図の左下にあります。(下が北)

 

 

堺別院の現地解説板です。

 

この表門は正確には南表門です。

以下は以前にUPした私のブログからです。

元あった狭山藩陣屋は

江戸時代の狭山藩陣屋古絵図です。

ピンク丸内が南表門です。川は東除川です。

川の右側に下屋敷があります。

東新宿とあるのは狭山池を管理する人々

の屋敷地です。

 

江戸時代1786年頃の、狭山藩上屋敷の古絵図です。

ゲーム信長の野望に出てくる、関東北条家

家臣の名字も見えます。田中とあるのは、

狭山池守家の田中家で、現地支配を容易

にするために、家臣として取り込んでいる

のでしょう。

上図①から見た南表門跡の、現在の風景は

 

まっすぐ伸びる道が陣屋のメインストリートです。

手前は堀代わりの、東除川に架かる橋です。

この右の方に歩いて橋を撮影すると

 

堀に見立てた東除川です。先の方に見えるのが

上の写真にある橋です。

 

今日はここまでで、明日は小谷城の紹介です。

 

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