昨日の続きです。
今日は朝倉義景館跡と朝倉義景の紹介です。
ガイダンス棟から朝倉義景館跡に移動途中です。
下絵図④の橋の所です。
現在地にある観光案内図です。
⑤の辺りからの写真は
⑤辺りの朝倉義景館の堀です。
以前来た時は堀が無かったのですが復原したんですね。
上の方まで掘られています。
山側も含めた周囲に堀切があるようですね。
館跡周辺絵図です。
解説板です。
図面をさらに拡大すると
左右の角には隅櫓があります。
規模は、土塁や堀(濠)をふくめた敷地面積は10628㎡(約3220坪)
土塁内部の平面は6426㎡(1947坪)で、当時の室町幕府で「管領」
の館にも匹敵する広さです。
手前の高い土塁の上に隅櫓がありました。
西門方向です。
西門です。
松雲院というお寺の西門(唐門)正面でした。
この唐門は朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられた松雲院の寺門として、
朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わります。門表には朝倉家の三ッ
木瓜の家紋が刻まれています。現存するものは江戸時代中期頃に再建され
たものです。唐門は秀吉公寄進によるとの伝説もあります。
橋から北側の堀を撮影しました。
⑥から撮影の松雲院西門(唐門)の拡大です。
朝倉義景館跡の松雲院は、尼寺として存続していましたが無住となり、
昭和42年に史跡環境整備事業が始まると、一乗谷朝倉氏遺跡を国の
重要文化財として保存するために、松雲院の移転問題が起こり、寺地
は福井市に寄付されます。 現在、松雲院は北の庄の心月寺内に併設
されています。
心月寺は朝倉敏景が祖父教景(1463年没)の菩提を弔うため15世
紀後半に建立されました。以後、朝倉家の菩提寺となりました。かつ
ては300人近くの僧がいたといわれ、朝倉貞景の代には奥州の大名
が700人を率いて寄宿したとの伝説もあります。当時の寺院は現在
の一乗小学校(福井市西新町・上城戸の近く)のあたりにあったと考え
られています。
一乗小学校が右下にあります。
心月寺は一乗谷焼失後、一旦、丹生郡(鯖江市域)に移り、1599年
(慶長4年)には朝倉館跡に再興されますが、1601年に結城秀康の
越前入りにともない、北ノ庄に移ります。朝倉館跡に残された寺は、
朝倉義景の法名である、松雲院殿太球宗光大居士から松雲院と名
付けられ、心月寺の末寺となりました。
朝倉義景
朝倉義景肖像画です。
朝倉義景(あさくら よしかげ)は、約100年に渡って越前国を治めた、
朝倉家の長男として1533年に生まれました。14歳の頃に父の孝景
が亡くなったため、若くして11代当主となります。当初は一族の名将
である朝倉宗滴が政務・軍事を補佐しており、越前国は平和で安定
していました。
将軍家とも近しかった義景は将軍・足利義輝から義の字を初めて貰
いますが、義輝が暗殺された後、その弟である義秋(後の将軍・足利
義昭)を越前に招きます。義秋自身も義景を頼りにしており、義景が
苦しんでいた加賀一向一揆との仲介を行い和睦もさせました。
しかし、義秋からの再三の上洛要請も義景は応じませんでした。なの
で義秋は織田信長を頼ることになり、信長が上洛して、足利義秋を
将軍とします。
朝倉義景を従属させるため、信長は1570年に徳川家康とともに義景
を攻めます。この際は、信長の妹婿である浅井長政が裏切って義景に
加勢したため、信長は撤退します。朝倉軍はその後を追うも、信長を
はじめとする有力武将を取り逃がしてしまいます。
その2ヶ月後には、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍の姉川の戦
いでは、朝倉・浅井勢は敗北しました。同年12月には信長と義景は
勅命講和することになります。その後は武田信玄、朝倉、浅井などに
よる織田包囲網が敷かれました。信玄が信長と戦っている間に、義景
は長政とともに信長を攻めますが、羽柴秀吉の軍に手こずり敗走しま
す。
信玄が亡くなり、主力を越前へ向けることができるようになった信長は、
1573年に大軍を近江浅井へ向けて侵攻しました。義景は全軍で迎
え撃とうとしますが、これまでの義景の失態に重臣たちの心は離れて
いて、出陣命令を拒否されてしまいます。少ない兵力で出馬しますが
大敗して、義景は命からがら逃走し隠れていたところを、最後まで味方
だった、朝倉景鏡にも裏切られて襲撃を受け自害しました。
今日は此処までです。明日が最終回です。
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