塩見繩手と明々庵  松江最終回 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今日は塩見繩手の武家屋敷からです。

さらに武家屋敷が続いています。

 

塩見繩手の解説板です。

 

 

 

江戸中期以降の古地図では御小人長屋となっっています。

江戸時代後期には中級武士の屋敷になったのでしょうか?

 

この地図では御小人長屋の家屋が省略されています。

 

さらに続きます

 

 

この右端に明々庵に行く道があります。

 

北の方に行きます。

 

 

さらに進むと

この辺りも武家屋敷があります。

 

さらに右(北)に行くと

 

進むと

 

明々庵のある赤山茶道会館が見えてきました。

 

明々庵付近の地図です。

 

階段を上がると、この上に明々庵があります。

さらに階段があり

 

 

説明板があります。

 

さらに上がると

 

広場に出ます

この広場からは天守がよく見えます。

 

 

ズームアップして撮影すると

松江城天守です。

 

不昧公とは

宝暦元年(1751年)~文政元年(1818年)に、松江藩七代藩主の松平治郷

(幼名を鶴太郎)は、未央庵(みおうあん)・一々斎(いちいちさい)・宗納(そうの

う)・不昧などの号をもっています。不昧の号は、江戸天真寺の大顛和尚(だい

てんおしょう)が、無門関百丈野狐(むもんかんひゃくじょうやこ)の章「不落不昧

(ふらくふまい)」から命名したもので、公は特にこの号を愛用しました。17歳で

藩主となり、国家老朝日丹波(あさひたんば)の補佐を受けて藩政改革を行な

い、財政立直しに成功しました。また若くして茶を学び、二十歳で真の台子(だ

いす)の伝授を受けています。茶事の奢侈贅沢(しゃしぜいたく)を戒めて、茶道

は修身治国のもとたるべきを、茶道随筆「贅言(むだごと)」で説いています。

家政が豊かになるにしたがい名物茶器収集に没頭し、「古今名物類聚」十八巻

の大著をはじめ、多数の書物を著しています。収集の名物は代々大切にすべ

きを論して、品目は「雲州蔵帳(うんしゅうくらちょう)」として知られます。文政元

年4月24日江戸大崎で68歳の生涯を終えました。

 

 

この奥に明々庵があります。

 

門の中に明々庵があります。

 

明々庵の解説板です。

 

松平不昧公

 

1779年に不昧公が建てた明々庵です。

最初は殿町の家老有澤邸に建てた茶室です。

 

今年はここまでです。

この1年間、このブログを見ていただいてありがとうございました。

来年もよろしくお願いします。

 

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