今日は御城番屋敷の内部紹介からです。
一番端のこのお宅が公開されています。
左に式台・右に日常の玄関が見えます。長屋とはいえ立派な式台がある
のはすごいですね。1戸の石高は40石となっています。1戸当たりの間口
は5間(約9m)で50坪です。彦根藩の足軽は一戸建で間口は同じでした。
しかし、こんな立派な式台はありませんでした。そのリンクはここです。
彦根藩の場合は10石ほどしかありませんでしたので、その2倍(年貢は
40石の約半分20石として)もの収入がありました。現在の年収にすると
約150万円ほどになります。当時は家賃・税金・保険料・電気・ガスなど
の支出がないうえに、副業で畑・内職などが出来ました。1石=150kg、
3000kgのお米は、現代では10kgを5000円としたら、5000×300
=150万円と計算しました。
建設された当時の間取り図です。
生け垣の門を入ると
手前が式台で、奥が床の間付の8畳和室になります。
玄関を中に入ると
土間があり、左側に内玄関があります。
さらにこの奥は
竈などのある土間になります。右側の部屋は改造で付け増した部屋で
、江戸時代は燐家となっていました。
左側の部屋は
手前が間取り図の後6畳となります。
この奥の間は
間取り図の後8畳の間です。裃が掛けてあります。
裃は普段、武士以外は着用出来ないものでした。
この右側は
縁側と洗濯物を干したりする庭があります。
この右側は
こんな感じです。
後8畳の左側は
前8畳の部屋です。縁側の先には小さい庭があります。
床の間のある前8畳の部屋です。床柱の右側は押入れでしたが、
違い棚のある本床に改造されています。
縁側の先の庭です。
生け垣の門方向を見たところです。
後6畳から前6畳の間を見たところです。式台が見えます。
前8畳と左側の前6畳を見たところです。
角屋に当たる所です。お手洗いなどに改造されています。
裏に出たところから撮影しました。
土間の上は炭などを置く倉庫でした。左側は管理人室です。
二の丸の外側を回り、表門に戻りました。
⑰の辺りから表門①へ歩きます。
初めの角では
この辺りは二の丸の石垣ですが、打込み接ぎになっています。
陣屋が二の丸にあったので、蒲生氏郷時代の野図積みのもの
から積み直したのでしょう。
この反対側の民家は
さらに歩くと
左側に入ると
江戸時代には、この石垣上の二の丸に紀州藩の陣屋がありました。
江戸時代の堀の位置図です。
埋め戻された堀跡の細い溝が見えます。(グーグルより引用)
大手門跡そばにある堀跡の溝です。(グーグルストリートビューより引用)
ここより右側(城側)に、約25m巾程の堀が江戸時代にはありました。
さらに二の丸石垣の周りを歩くと
①位置の表門跡に到着しました。
松坂城表門を撮影した、明治初期の古写真です。
瓦葺の二層櫓門でした。
これで松坂城の紹介を終わります。明日からは桂離宮の紹介です。
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