今日は午後6時の新幹線で岐阜羽島駅から、自宅に帰った
のが午後8時20分でした。やっぱり新幹線は早いです。
昨日は浜松からスマホでUPしましたが。現在時刻でUPしな
かったので、作り置いた日時でUPしてました。今日の朝にな
ってから、現在時刻でUPしました。混乱して申し訳ないです。
今日の朝の続きです。
今日は天守跡から三の丸を通り北の丸跡の月見櫓まで行きます。
下の地図④の辺りです。鞘橋前から天守台を見たところです。
昨日UPの天守台の上にあった古地図です。
2代目の藩主の時代のものです。
これは初代藩主の頃の古絵図です。北の丸に月見櫓が
ありません。初代頼重と2代目頼常の治世はどちらも32
年間もありました。
上の古地図③の所です。
上の古地図⑥の鉄門跡です。この中が二の丸です。
江戸時代の二の丸には、藩庁や藩主御殿がありま
した。江戸時代も披雲閣と言われて、約2倍の大き
さでした。明治時代に老朽化のため取り壊されて、
大正6年に15万円(当時500円で家が建つ時代)
と3年の歳月をかけて、元松平藩主家により再建さ
れました。
鉄門の解説板です。
現地の現在の地図です。
鉄門を抜けると水門があります。
唯一の水門です。国道30号線の下に暗渠となった水路で、
海と繋がっています。この水門で水位調節ができます。
この水門から堀に入った、クロダイなどの海水魚が泳いで
います。
水門の解説板です。高松城は日本三大水城の一つです。
現在は埋め立てにより海と接しないようになりました。
高松藩は水練の盛んな藩でした。
⑦の方に歩きました。
左端の石垣の上には多門櫓がありました。
⑦から月見櫓を見ました。
⑦から見た月見櫓です。その右側が水手御門です。この門の外が海
でしたので、ここから小舟に乗って、沖の御座船(大型船)に乗りました。
この月見櫓は海手出入り監視のための隅櫓でした。
カメラを左に回すと
海であった所が埋め立てられています。
高松藩御座船の飛竜丸です。
飛竜丸(ひりゅうまる)は、初代高松藩主松平頼重在世の
寛文9年(1669年)に、藩主の御座船(ござぶね)として造
られ、のちに、新造された御座船にも同じ名称が使用されま
した。飛竜丸については、「御船□□役心得方覚書」に「2人
掛り48挺立(大櫓)、水夫90人、凡(およそ)石目1092石
3斗」と記されています。
この絵図は、宝暦5年(1755年)と寛政4年(1792年)、
船大工用の図面をもとに、美しく着色した豪華なものです。
屋形(やかた)を中心として、各細部の様子がよく描かれて
います。藩主の御座の間がある屋形は、二層で6室です。
御座の間は、床に違い棚があり、障子や屏風にも豪華な
絵が描かれています。
(高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』より引用)
水手御門の解説板です。この古写真は埋め立て前なので海が見えます。
さらに進むと
ここを左に曲がると月見櫓があります。
左に曲がったところです。
古地図⑧の水手御門と月見櫓(内部非公開)です。
月見櫓と水手御門の解説板です。
次に、披雲閣に庭から入りました。
古地図⑨から披雲閣の庭入口です。
飛雲閣内部もガイドさん同伴なら見学できます。
今日はここまでです。明日は飛雲閣の庭と内部紹介などです。
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