大阪歴史博物館の10Fの紹介 難波宮 | みどりの木のブログ

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今日は映画「バイオハザード:ザ・ファイナル」を見てきました。ファイナル

ということで、ぜひ見ておきたいと思いました。昔プレステのゲームでやっ

ていましたが、オンライン化してからはやっていません。オンラインゲーム

は終わりが無いので、やり続けて廃人になる恐怖を感じたからです。映画

の感想は明日UPします。

 

昨日の続きです。

後期の難波宮の大極殿の復元を紹介しましたが、

今日は難波堀江からです。

築造の時期は5~6世紀前期と考えられます。ただし、築造したのが

仁徳天皇だったと言われますが、肯定派と懐疑派で見解が分かれて

います。難波津の港の位置すら未だ定まっていません。難波堀江の

流路としては、大阪城のすぐ北の天満川から大川をとおり、中之島の

辺りで海に出るルートが推定されています。

 

 

現在の地図では

難波京の推定位置です。区画された道があったらしいです。

難波堀江は大坂城の北側ですね。(この前南と間違いました。すいません)

 

 

 

 

 

前期難波宮の模型です。

 

前期難波宮の模型です。

 

後期難波宮の模型です。

 

後期難波宮大極殿です。

 

難波宮
645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、

宮殿は652年に完成します。元号の始まりである大化

の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれました。

前期難波宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺

屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(こと

ごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、ことばでは

言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿でした。

 

朱雀門の掘立柱発掘の様子です。

 

孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇極

天皇(宝皇女)は、孝徳天皇が没した後、655年1月に

飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となります。

後にやっと子供の天智天皇が即位します。

683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、

飛鳥とともに難波を都とします、686年(朱鳥元)正月に

難波の宮室が全焼してしまいます。

その後40年が経過して
奈良時代になり。神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原

宇合を知造難波宮事に任命して、後期難波京の造営に

着手させ、奈良平城京の副都とします。中国の技法であ

る礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られました。

 

後期難波宮大極殿です。内部の復元は前回で紹介しました。

 

後期難波宮大極殿跡の発掘調査の様子です。

 

上の写真の枠内の再現模型です。

 

 

後期難波宮の大極殿は瓦葺でしたが、内裏は檜皮葺で

屋根のいちばん上だけが瓦葺でした。

 

河内の国のはんこです。


聖武天皇治世26年間に難波行幸は8度の多きを数え、

天平16年には、一時的とは言え難波京遷都さえ行われ

ました。

 

前期と後期の大極殿の位置は同じです。

 

オウムのまいちゃんカキカキだよーー!

の動画をお借りしました。(1分39秒)

今日はここまでです。明日は大阪歴史博物館の9階の紹介です。

 

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