観心寺の子院紹介4 山門南側の江戸末期と現在の姿 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

昨日の続きです。

今日は現在の山門南側の江戸末期と現在の姿です。

この辺りも子院がいくつも廃絶しています。その状態を

説明します。今週の土曜日は以前紹介の千石掘城・

金胎寺城などを見学に行きます。来週にUPします。

観心寺の紅葉の写真・ライトアップ・ライトショーは

明日からUPします。

 

槙本院から山門に歩く途中で、皇帝ダリアが咲いていました。

 

​皇帝ダリアの花

皇帝ダリアの花です。


皇帝ダリアの花です。

 

下の写真の左上に皇帝ダリアが咲いています。

下の古地図①からの写真です。手前は国道310号線です。

駐車場も子院のあった所です。江戸時代にあった大沢街道

は細い道なので、この道の大部分は今は無い子院だったと

考えられます。

 


江戸時代末期の古地図です。正確な年代は不明だそうです。

ピンクの線は大沢街道です。現在の山門は明治以降に建てら

れたものですね。幕末に討幕の魁となった天誅組が、この街道

を通って、奈良の五条代官所を襲っています。

 

石見(いしみ)川沿いに大沢街道があり、奈良県の五条に通じていました。

 

現在の観心寺伽藍配置図です。現在の国道310号線は山門前を

東に延びていますが、江戸時代の大沢街道は山門前で南に曲がっ

ていました。

 

現在の観心寺山門です。②の少し左から撮影しました。

山門右の塀に惣持院がありましたが、現在はありません。

南北朝時代に後醍醐天皇が惣持院で執務をとる行在所

でした。由緒ある子院なので残念です。

 

上の写真の反対側は

②の位置辺りから南方向を撮影しました。この道の先に赤い大門

がありました。子院のあった所は駐車場になっています。

写真右の空き地にも子院がありました。国道310号線が出来て、

大沢街道が拡幅されて子院跡の敷地もかなり道になっています。

 

③の辺りから撮影しました。石垣と書いた上に子院がありました。

大門とは現在の山門です。

拝観に来た車が大量に入って、駐車待ち状態です。

 

③の位置から南方向を撮影しました。右端にコーンが少し見えますが、

この辺りに赤い大門がありました。

 

コーンのある辺りに赤い大門がありました。

 

④の辺りから子院跡の駐車場と、赤い大門跡を撮影しました。

ここの発掘調査で、子院跡から古銭が大量に出土したそうです。

 

上の写真の反対側には

子院の遺跡と思われる石塔などがあります。

 

長いのでもう一度古地図です。

江戸時代末期の古地図です。

 

⑤の位置には昔、川上小学校がありましたが、現在は保育園と

公民館があります。

川上小学校跡です。右が保育園で左が川上公民館です。

左端車の先に

現在の平成天皇の昭和34年の成婚記念碑がありました。

川上小学校がここにあった頃の石碑でしょう。

 

川上公民館と右が保育園です。正面奥の白い像は

川上小学校時代の遺物です。川上小学校は現在、

新興住宅街の清見台に移転しています。

 

続いて⑥の川の方に行きました。

この左は保育園で

 

保育園は江戸時代に子院だったので、その遺跡らしき石碑がありました。

 

ここから川⑥に降りると

石見川です。赤い線のところに橋があったと思います。

 

この反対側は

昔にくらべて、石見川の浸食作用で大沢街道が無くなり、

そこは護岸されています。

 

今日の動画はお喋りインコのタロウさん 「近いってタロ」(1分)

をお借りしました。

今日はここまでです。明日は観心寺の紅葉と霊宝館の紹介です。

 

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