環濠集落平野郷の紹介13 光永寺など | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。平野郷には浄土真宗のお寺である、

浄土真宗本願寺派 鷲谷山 光永寺があります。 

1496年に坂上田村麿の後裔といわれる明鎮が創建して、平野

の人々の信仰を集めた、真宗教団の中でも有力末寺だそうです。

本願寺10世門主証如が記した『天文日記』に光永寺の名が頻出

します。中でも1536年6月15日の記事は重要で、大坂本願寺の

造営のために、「平野衆」と呼ばれる光永寺の門徒200人が大坂

へ手伝いに来ている様子が記されています。16世紀前半には、

光永寺が平野郷の中で浄土真宗として、確固たる地位を確立し

ており、多数の門徒衆を抱えた大きな勢力であった、また本願寺

教団にとって摂津南部、河内方面への重要拠点となっていたこと

がわかります。

織田信長のため、堺も平野も屈服し銭を支払いますが、​石山本願

寺は信長に抵抗を続けていました。そして、平野庄の光永寺から

大坂の本願寺に兵糧米が搬入されていたんです。信長の朱印状

には、平野庄から兵糧米を搬入する者がいることを指弾し、このよ

うな曲事(くせごと)をする者は成敗すると警告しています。

平野庄のすべての者が信長に服従してはいなかったのです。特に

この光永寺は石山本願寺の末寺なので、兵糧を搬入したのでしょう。 

信長からは成敗はされなかったようです。  

                 「平野郷 大阪市編入五十周年誌」より引用           

 

光永寺の山門です。太鼓楼が立派です。

 

現地でもらったパンフレットより、

赤い丸長宝寺の左が光永寺です。

 

 

光永寺の全景です。

 

光永寺に残る親鸞画像裏書です。

光永寺には16世紀代の4点の画像が伝来しています。最も古いもの

は親鸞画像で、1537年に証如が光永寺の僧明祐に下付したという

裏書を伴っています。この裏書には本願寺9世門主実如の証判も記

されています。また、1589年の本願寺11世門主顕如による修復の

裏書もある。さらに関連する光永寺文書がいくつかある。1582年と

1596年の光永寺4世僧明春に対して、宮中から官位を与えた口宣

案2通があります。

               「平野郷 大阪市編入五十周年誌」より引用               

 

この辺り周辺の写真は

100年後も誇れる町造りということで、リフォームされた家です。

現代の箱物的な家より威厳があります。

 

光源寺です。保育園部分の多いお寺です。

真宗仏光寺派です。

 

これもリフォームされた家です。

 

 

上の地図にある慧光寺です。

浄土真宗大谷派の寺院です。

下の地図より長宝寺の北約100mにあります。

以前紹介の富田林寺内町では、浄土真宗寺内町であるため、

宗派が違う人が少なく、多くのお寺がありませんでした。裕福

な商人は利益をお寺建立に使わず、田畑や借家を買っていま

した。なので家内工業的な商人が多かったです。しかし、この

平野郷の住人は特定の寺の寺内町でないため、宗教がバラ

バラで多いため、いちいち信仰しているお寺を建てています。

なので、上の地図からも分かるように、多くのお寺があります。

また、地場の綿花産業を発展させて、綿花を輸入し、繊維産業

では全国的規模の紡績会社が出来ています。

 

お腹をくすぐられてかわいい子猫の動画をお借りしました。(51秒)

子猫がバンザイして、「もっともっと触ってにゃ」と言っているようです。

今日はここまでです。明日は平野郷歴史のまちなみ館の紹介です。

 

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