今日は杭全神社(坂上氏の氏神)と同じ、
坂上氏の氏寺である真言宗長宝寺の紹介です。
長宝寺山門です。山門前の右側には
「後醍醐天皇行在所跡」の石碑があります。
左側の赤丸の位置にあります。
長宝寺本堂です。 本尊として十一面観世音菩薩像
(毎年5月18日に開扉)を安置します。寺伝によれば、
この像は仏師・春日作で、坂上田村麻呂の念持仏で
あるといいます。他に閻魔王(えんまおう)像(毎年5
月18日に開扉)を安置します。
広大な寺域に多くの堂宇があったのですが、元弘の乱
(1331年)、建武年間 (南北朝の争い)、元和(大坂夏
の陣(1615年))の兵火により、灰燼に帰します。
「平野郷町誌」には、現在の本堂・庫裡は当寺第三十三
代・慈源大姉の時、天保年間(1830-1844年)に再建さ
れました。当寺の住職は代々坂上家の女子が補される
ことになっています。
坂上田村麿の人形が置いてあります。
山門横にある説明板です。
仏涅槃図です。(重要文化財:寺のWebページより引用)
鎌倉時代の銅鐘です。(重要文化財)
長寳寺(ちょうほうじ)は、大阪市平野区平野本町にある高野山真言宗
の寺院です。山号は王舎山で本尊は十一面観音です。「長宝寺」とも表
記します。
創建は、大同年間(806年~ 810年)で、寺伝によれば開山は坂上田村
麻呂の娘で、平野庄領主の坂上広野(坂上廣野麻呂)の妹の坂上春子
(慈心大姉)とされます。春子は桓武天皇の妃でした。延暦25年(806年)
に桓武天皇が崩御すると、春子は空海(弘法大師)に帰依して剃髪し、
慈心尼と称します。兄の広野を頼りこの平野庄に来ました。この寺は父
の坂上田村麻呂(父)が大同年間(806-810年)に建立したといいます。
田村麻呂の長男坂上大野(さかのうえのおおの、生没年不詳)がいまし
た。しかし、大納言・坂上田村麻呂の長男は官位は従五位下・陸奥権介
で(大同3年(808年)5月従六位下から従五位下に昇叙され、陸奧鎮守
副将軍に任ぜられます。同年6月陸奥権介)した。父・田村麻呂の後を
継ぎ東北経営に従事しますが早世し、坂上氏の家督は弟の広野が継ぎ
ました。春子は平野殿と言われた、畿内に住む弟の広野を頼りました。
父の田村麻呂は京都の清水寺も建立しますが、娘のためにこのお寺も
建立しました。
寺の墓地にある春子妃の墓です。(寺のWebページより引用)
南北朝時代には、後醍醐天皇が大和国・吉野(奈良県)に向かう途中に、
当寺を仮の皇居としました。その際に「王舎山」(釈迦の王舎城にちなむ)
の山号が下賜されます。 元亨年間(1321年-1324年)に笠置城(京都府)
が落城したとき61人が戦死し、その妻女たちが当寺で出家したと伝えら
れています。
右側が大師堂(元田村堂)です。
宗祖空海(弘法大師)像を安置しています。もと田村堂と称し、
江戸時代までは、坂上田村麻呂像(伝・坂上廣野麻呂作))が
安置されていたが、明治時代の神仏分離令により、田村麻呂
像は杭全神社(くまたじんじゃ)に移され、杭全神社境内の大
師堂にあった弘法大師像が長寳寺に移された。
左側の護摩堂は役行者像を安置します。
寺に所蔵される『よみがえり草紙』によれば、本堂に安置される閻魔王は、
1439年6月6日に慶心坊尼を頓死させます。頓死させた理由は、存命中
に仏道の修行を怠(なま)けると地獄に堕ちるということを知らせるために、
地獄の恐ろしさを見聞させ、逆修を勧めさせるためであった。
閻魔王は「閻魔大王の証判を持つ物は地獄に落ちない」といい、閻魔王の
証判をもっていた慶心坊尼は地獄に堕ちた3日後に蘇生したといいます。
慶心坊尼は今でいう、臨死体験から地獄を体験したわけです。
その後、1441年10月15日に読経中の慶心坊尼が青蜘蛛(くも)をつか
むと青蜘蛛は舎利に変わりました。1442年に慶心坊尼が逆修供養を
営んだ際に、客僧が来訪し、閻魔王の木像を刻んで姿を消します。その
客僧が閻魔王であったといいます。
「青蜘蛛の舎利」、「閻魔大王木像」、「閻魔大王実判」は現在も、長寳寺
に伝わっています。慶心坊尼がこの出来事を書いたものが、『よみがえり
の草紙』です。逆修を勧めるために書いたものが『逆修講縁起』です。
現地でもらった地図です。
この長宝寺の南側には道をはさんで、本妙寺というお寺があります。
本妙寺の山門です。
本隆山受信院と号す。本尊は首題宝塔釈迦多宝仏で、
1551年10月13日、僧日理と尼崎芝新兵衛とにより
創建され、1681年11月18日類焼の厄に遭い、諸堂
宇悉く烏有に帰し、元文年間(1736~1740)再建された。
昭和7年には客殿が新築されている。1981年に宗祖
日蓮大菩薩第七百遠忌の御報恩事業として本堂が再
建新築される。
境内には妙見堂があり、お詣りする人も多く一般に
本妙寺というより妙見さんとしてしられている。
「平野郷 大阪市編入五十周年誌」より引用
門を入り左側に妙見堂です。
本堂です。
この向かい側には墓地があります。
最後に7月24日に再訪問した、杭全神社で中門の隙間から本殿
を撮影しました。
坂上田村麻呂の孫の坂上広野が初めて、
スサノウノミコトを勧進して祀る第一本殿です。
熊野権現を祀る第2本殿です。幅が3間あります。他は1間です。
第3本殿です。左に見えるのが第2本殿です。
今日はここまでです。明日は浄土真宗の光永寺などの紹介です。
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