環濠集落平野郷の紹介12 長宝寺など | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

今日は杭全神社(坂上氏の氏神)と同じ、

坂上氏の氏寺である真言宗長宝寺の紹介です。

 

 

長宝寺山門です。山門前の右側には

「後醍醐天皇行在所跡」の石碑があります。

 

 

左側の赤丸の位置にあります。

 

長宝寺本堂です。 本尊として十一面観世音菩薩像

(毎年5月18日に開扉)を安置します。寺伝によれば、

この像は仏師・春日作で、坂上田村麻呂の念持仏で

あるといいます。他に閻魔王(えんまおう)像(毎年5

月18日に開扉)を安置します。

広大な寺域に多くの堂宇があったのですが、元弘の乱

(1331年)、建武年間 (南北朝の争い)、元和(大坂夏

の陣(1615年))の兵火により、灰燼に帰します。

「平野郷町誌」には、現在の本堂・庫裡は当寺第三十三

代・慈源大姉の時、天保年間(1830-1844年)に再建さ

ました。当寺の住職は代々坂上家の女子が補される

ことになっています。

坂上田村麿の人形が置いてあります。

 

山門横にある説明板です。

 

仏涅槃図です。(重要文化財:寺のWebページより引用)

 

鎌倉時代の銅鐘です。(重要文化財)

 

長寳寺(ちょうほうじ)は、大阪市平野区平野本町にある高野山真言宗

の寺院です。山号は王舎山で本尊は十一面観音です。「長宝寺」とも表

記します。

創建は、大同年間(806年~ 810年)で、寺伝によれば開山は坂上田村

麻呂の娘で、平野庄領主の坂上広野(坂上廣野麻呂)の妹の坂上春子

(慈心大姉)とされます。春子は桓武天皇の妃でした。延暦25年(806年)

に桓武天皇が崩御すると、春子は空海(弘法大師)に帰依して剃髪し、

慈心尼と称します。兄の広野を頼りこの平野庄に来ました。この寺は父

の坂上田村麻呂(父)が大同年間(806-810年)に建立したといいます。

田村麻呂の長男坂上大野(さかのうえのおおの、生没年不詳)がいまし

た。しかし、大納言・坂上田村麻呂の長男は官位は従五位下・陸奥権介

で(大同3年(808年)5月従六位下から従五位下に昇叙され、陸奧鎮守

副将軍に任ぜられます。同年6月陸奥権介)した。父・田村麻呂の後を

継ぎ東北経営に従事しますが早世し、坂上氏の家督は弟の広野が継ぎ

ました。春子は平野殿と言われた、畿内に住む弟の広野を頼りました。

父の田村麻呂は京都の清水寺も建立しますが、娘のためにこのお寺も

建立しました。
 

寺の墓地にある春子妃の墓です。(寺のWebページより引用)

 

南北朝時代には、後醍醐天皇が大和国・吉野(奈良県)に向かう途中に、

当寺を仮の皇居としました。その際に「王舎山」(釈迦の王舎城にちなむ)

の山号が下賜されます。 元亨年間(1321年-1324年)に笠置城(京都府)

が落城したとき61人が戦死し、その妻女たちが当寺で出家したと伝えら

れています。

右側が大師堂(元田村堂)です。

宗祖空海(弘法大師)像を安置しています。もと田村堂と称し、

江戸時代までは、坂上田村麻呂像(伝・坂上廣野麻呂作))が

安置されていたが、明治時代の神仏分離令により、田村麻呂

は杭全神社(くまたじんじゃ)に移され、杭全神社境内の大

堂にあった弘法大師像が長寳寺に移された。
 左側の護摩堂は役行者像を安置します。

 

寺に所蔵される『よみがえり草紙』によれば、本堂に安置される閻魔王は、

1439年6月6日に慶心坊尼を頓死させます。頓死させた理由は、存命中

に仏道の修行を怠(なま)けると地獄に堕ちるということを知らせるために、

地獄の恐ろしさを見聞させ、逆修を勧めさせるためであった。

閻魔王は「閻魔大王の証判を持つ物は地獄に落ちない」といい、閻魔王の

証判をもっていた慶心坊尼は地獄に堕ちた3日後に蘇生したといいます。

慶心坊尼は今でいう、臨死体験から地獄を体験したわけです。

その後、1441年10月15日に読経中の慶心坊尼が青蜘蛛(くも)をつか

むと青蜘蛛は舎利に変わりました。1442年に慶心坊尼が逆修供養を

営んだ際に、客僧が来訪し、閻魔王の木像を刻んで姿を消します。その

客僧が閻魔王であったといいます。

「青蜘蛛の舎利」、「閻魔大王木像」、「閻魔大王実判」は現在も、長寳寺

に伝わっています。慶心坊尼がこの出来事を書いたものが、『よみがえり

の草紙』です。逆修を勧めるために書いたものが『逆修講縁起』です。

 

現地でもらった地図です。

 

 

この長宝寺の南側には道をはさんで、本妙寺というお寺があります。

本妙寺の山門です。

本隆山受信院と号す。本尊は首題宝塔釈迦多宝仏で、

1551年10月13日、僧日理と尼崎芝新兵衛とにより

創建され、1681年11月18日類焼の厄に遭い、諸堂

宇悉く烏有に帰し、元文年間(1736~1740)再建された。

昭和7年には客殿が新築されている。1981年に宗祖

日蓮大菩薩第七百遠忌の御報恩事業として本堂が再

建新築される。

 境内には妙見堂があり、お詣りする人も多く一般に

本妙寺というより妙見さんとしてしられている。

        「平野郷 大阪市編入五十周年誌」より引用

 

門を入り左側に妙見堂です。
      

 

本堂です。

 

この向かい側には墓地があります。

 

 

最後に7月24日に再訪問した、杭全神社で中門の隙間から本殿

を撮影しました。

坂上田村麻呂の孫の坂上広野が初めて、

スサノウノミコトを勧進して祀る第一本殿です。

 

熊野権現を祀る第2本殿です。幅が3間あります。他は1間です。

 

第3本殿です。左に見えるのが第2本殿です。

 

今日はここまでです。明日は浄土真宗の光永寺などの紹介です。

 

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