大坂夏の陣 天王寺の戦い3  安居神社 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。
パソコンの調子が悪いので、サブのパソコンで書いています。
サブは能力が低いので、新しいパソコンを買うことにしました。
楽天でマウスコンピュータ製の、Windows10にしました。今の
ドライバーで動けばいいんですが、動かないのがあるかもです。



茶臼山周辺の梅です。



さて、今日は真田幸村(信繁)が最初に、天王寺口で戦った大名、
松平忠直の紹介からです。

松平忠直(まつだいら ただなお)は、江戸時代初期の大名。
越前北ノ庄(福井)藩主。結城秀康の長男です。そして家康
の孫なのです。1607年に父・秀康の死に伴って、越前75万石を
相続し、1611年には叔父(秀康の弟)である将軍徳川秀忠の娘・
勝姫(天崇院)を正室に迎えます。元服の際には秀忠より偏諱を
かり忠直と名乗ります。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、用兵の失敗を
祖父・徳川家康から責められ、前日の八尾の戦いでも藤堂・
伊井の苦戦に救援に行かず、家康から叱責されていました。
なので、夏の陣では真田
信繁(幸村)らと戦いながら、大坂
城へ真っ先に攻め入るな
どの戦功を挙げます。しかし、戦後
の論功行賞に不満を抱き、次第に幕府への不満を募らせ

ます。おそらく、松平忠直の越前隊は15000人もいるの
に、抜け駆けで先鋒となり、真田隊と戦いながらも右翼を崩
されて、行き違い
となり、真田隊を放置して大阪城へ行った
ので、徳川家康自身が死にかけたことで、評価が下がった
かもです
。1621年には病を理由に江戸への参勤を怠り、
また翌元和8年(1622年)
には勝姫の殺害を企て、また、
軍勢を差し向けて家臣を討つ
などの乱行が目立つようにな
ります。元和9年(1623年)に
将軍秀忠は忠直に隠居を命
じます。九州大分に流され謹慎
となり、慶安3年(1650年)
に死去します。享年56でした。

松平忠直にも苦しい事情があったのですね。


昨日UPの1806年の地図です。



昨日UPの天王寺の戦い図です。




真田隊が家康に3度の突撃をした間に、
第2・3陣の部隊がたて直り、松平忠直
隊も一部が救援に来て、岡山口の方に
いた藤堂高虎が家康の応援に来たりし
て、毛利隊や眞田隊も疲弊していきます。
当初の作戦で、手薄の家康を攻撃する
予定の、明石隊300人も混乱した戦場
に突撃して、キリスト教徒の明石全登は
行方をくらまします。毛利勝永は大量の
火薬を爆破して、大阪城に退却します。
勝永は大阪城の山里郭で、8日に秀頼
を介錯して、自らも自害します。
真田繁信は安居神社で休息しました。
そこに来た
松平忠直隊の西尾久作の
槍に
かかって死亡します。


安居神社の入り口です。




境内図です。


奥のほうに続く参道です。



右に真田信繁の銅像があります。説明板には、
この銅像に触れて、真田信繁の遺徳をいただいてください。
とありました。




真田信の休んでいたという、2代目のさなだ松です。



真田信繁の銅像と松と石碑です。







安居神社本殿です。

境内の様子です。

西坂石段です。太平洋戦争の戦災で神社は焼けますが、
百貨店の大丸の協力で再建できました。


北坂石段です。



左の社が淡島大神です。





今日はここまでです。
明日に続きます。

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